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   タユランの糸車

中島直伽
発行:郁朋社

*** 1 ***



 夜の歓楽街に通ずる裏通りの人ごみの中から、男がふらりと歩いてきた。焦点の合わぬ視線が、裏通りの界隈のあちこちに立っている女たちの間をさまよい、わたしをとらえた。瞳はすばやく胸を通過し、つま先まで走り、顔へと往復して、わたしをみすえた。お酒に酔っている顔だったが、じっとわたしをうかがっていた。一瞬、自分がなんだか悪いことをしているような気がして目を伏せた。でもまたゆっくりと目を上げて彼を見た。おじぎをしかかったが、途中でとどこおった。見も知らぬ男に、それもわたしを買うかもしれない酒酔い男に、そんなそぶりは似つかわしくなかったから。彼は不安定な足取りで、近づいてきた。
 彼の顔を見つめた。澄んだ瞳が、邪気もなくわたしを見ている。他のジャポニと違って体温とか血の流れやにおいを感じさせた。とりわけととのった顔立ちというわけではなかったが、わたしと同じ感情とか気持ちといったものを共有しているような気がした。もしかしたら彼も外国人で、同じ立場にあるのかもしれないと思った。でも彼はジャポニで、わたしはガランジャニだ。
 いくら?
 指を三本立てたが一本折って見せた。
 じゃいこうよ。
 と彼は歩きはじめた。先ほどまで酔っているように見えた足取りが、なぜかしゃんとしていた。後について歩いた。
 名前は?
 リナ。
 ふうん。リナ、リナか、よくある名前だよな。
 彼の切れ長の目がちらりとわたしを見た。もちろんほんとうの名前ではなかったが、それを指摘されたような気がした。
 どこからきたの?
 お金、電気、自由がない国です。
 君はビジンだから、商売はんじょうしてるでしょう?
 男はわたしの顔をながめた。わたしは下を向いた。
 嫌いな人とはしないからもうかりません。
 そう。俺のこと嫌いじゃないんだ。
 はい。
 どうして?
 悪い人じゃないみたい。
 どうしてわかるの?
 なんとなく。
 彼はわたしを見た。
 どうだかね。
 彼は週末のラブホテル街へ足をすすめた。コバルトブルーのライトが出窓のならぶ汚れた白壁を照らしていたり、ネックレスのようにつながっている紫色の電球が、値段がきざまれている玄関の塀や奥の暗い出入り口をあやしげに照らしていた。飲み屋やバーやゲームセンターなどのけんそうが表通りから聞こえてくる。夜空をふさぐようにして古びたホテルが建ちならび、色とりどりのライトや飾りの看板が頭上できらめいていた。愛という文字をかたどった、赤く発光する看板をかかげたホテルの中へ、彼は入っていった。ロビーには全室を紹介した写真が、照明灯を兼ねたガラス製の平面板に大きくはりつけてある。彼は、どこがいい、とたずねた。どこでも、と答えた。
 扉を開けると、うす暗い部屋の真ん中に円形のベッドがあり、赤い小さな照明が壁のあちこちにあった。天井は鏡張りで、正面の大きなガラス窓の向こうには夜景が広がっている。暗闇の中に、高層ビルがぎっしりと立ち、赤い電灯がいたるところでてんめつしていた。どの建物にも明るい窓が縦や横に列をなしていて、そのうちの最も背の高いビルの屋上には骨格だけで完成されているピラミッド形のこうぞうぶつがあり、内部にあるライトでぼんやり照らし出されていた。ビル群の上空は、赤っぽいもやがかかっていてほのかに明るい。
 彼は洋服を着たままベッドにころがった。かばんをそばに放り出し目を閉じている。ベッドのふちに座り、彼を見ていた。彼は目を閉じて少しも動かない。そのうちに寝息が聞こえてきた。手持ちぶさたになり、そろりとベッドをおりてバスルームへいった。洋服を脱いで、シャワーを浴びる。バスルームとベッドルームとの間はガラス張りの壁になっていて、彼の方からわたしの身体が見えるはずだ。だが先ほどと同じ姿勢でぐったりと横たわっていて、こちらを見ているそぶりはない。タオルでぬれた身体を拭いて、下着をつける。ガウンを着てベッドに戻ったが、彼はわたしに気づく気配はなく寝ている。これではわたしを買った意味がない。第一むぼうびだ。もしわたしが財布をぬき取って逃げてしまったらどうするのだろう。
 ベッドに座って、彼をよくながめた。目の周りが赤くなっていて、まぶたはぴったりと閉じられている。浅黒い肌をしていて、がっしりとした骨格だが顎の線は細い。引きしまった唇をしているが、少しあいている。さらさらとした長髪と眠りこけた顔は、子供のようでもある。顔を近づけて見ると、きめの荒いがんじょうな肌をしていた。髭もつぶつぶと生えていて、やはり大人の男の顔だ。身体はやせているようだが、筋肉はついているかもしれない。彼の頬にもっと顔を近づけると、酒気をおびびた息のにおいがした。腋の方から酸化した汗のにおいもする。それは体温をともなっていた。この人のにおいは嫌ではない。ジャケットにのぞくシャツの上から顔を胸元に近づけた。広く暖かい感じがした。そこに顔をおいてみたいと思う。でも、彼を起こしてはいけないと思い何もしなかった。
 時間はたっていく一方だ。ショートの値段を言ったので、タイムリミットはもうすぐだ。このまま帰ってしまって別の客を取れば、お金は入るかもしれない。まだ彼からはお金をもらっていない。
 彼の寝顔を見ながら、少しかんかくをおいて隣に横たわった。彼とのすきまが気になった。そのすきまは空気を冷ややかなものにした。身体をずらせてふれ合うぐらいに近よった。近よると、彼の体温で暖まるように感じた。彼はうなってこちらに寝返りをうち、熟睡している様子で、片腕をわたしのウェストにおいた。寝入ってしまったのかまた動かなくなり寝息を立てはじめた。
 じっとして天井の鏡を見ていた。もうタイムリミットは過ぎている。彼はこちらに身体を向けてわたしのお腹に腕を乗せたまま、すやすやと眠っている。その腕をふりほどいて帰ることも、彼を起こしてお金をせいきゅうすることもできる。でも、できなかった。わたしのお腹にただおいているだけの腕に、じゃけんにしてはいけないような重みがあった。それに彼の身体から伝わるぬくもりで、わたしは久々に安らいで心地よくなっていた。
 今日は商売をやめて、このまま眠ってしまおう。どうせまともな生活ができるちゃんとした部屋など、今のわたしにはないのだから。泊まるならわたしのアパートの部屋よりは、このホテルの一室の方がずっと立派でさっぱりとしている。ホテル代は彼が払うだろう。目を閉じて、眠りがやってくるのを待った。やがて意識は遠のいていき、暗い淵にしずんでいった。

 遠くで銃声の音がした。ベッドから起き上がると、友達のアパートにいた。リムザムやミヤンといっしょにトマトと豆の煮込み料理を食べていると、いきなり黒い服の男が窓ガラスを割って入ってきた。わたしたちはびっくりして外に逃げようとした。後から何人もの黒い服を着た男がどかどかと部屋に上がりこんでくる。わたしたちは玄関から靴もはかないで逃走した。ふり向くと、黒いサングラスをした男が、銃をかまえてねらいをつけている。
 わたしはなりふりかまわず走って逃げた。ふたたび大きな銃声が聞こえたかと思うと、女の悲鳴が背後で聞こえた。わたしは両耳を両手でふさぎしゃがんだ。何か重たいものが背中にのしかかってきて、あっぱくされた。あまりに重くて地面に押しつぶされた。苦しい、もうだめだ、男たちに殺される、とあきらめた時、パン、パンという銃声が耳をつらぬいた。
 はっとして目を開けると、暗がりの中に小さなわたしが横たわっていた。その隣では、小さな男が胎児の姿勢で静止している。それが鏡だとわかった時、息をついた。汗が額から耳に伝ってきて、全身が汗ばんでいた。もっと彼の近くによった。片手を彼の手に乗せると、彼は首を左右にふって目を開いた。ゆっくりとまばたきをした後、わたしの顔を見た。彼はしらふの顔をして目を細め、わたしをながめた。
 あんた、だれだっけ?
 かるいショックをうけた。わたしの名前を忘れてしまったのだろうか。彼の手にかさなっている自分の手から力がぬけていった。
 あんたはたしか、リナ、リナだっけ?
 はい。
 わたしははずんだ声で返事をした。
 ああ、寝てしまったよ。
 つかれてるんですか?
 うん、いそがしくてね。
 と、薄暗い部屋の中で、ぼそっとつぶやいた。彼は顔をこちらに向けてわたしを見つめた。
 あんたはガランジャニみたいだな。
 当たりです。ガランジャからきました。
 そうなの。ガランジャは大好きだ。
 あら、めずらしいですね、どうしてですか?
 ガランジャの人々はそぼくでやさしいよ。
 そうですね。みんな自分の心を持っています。
 でも制度がきびしくてつまらないわ、と言いそうになって口をつぐんだ。知り合ったばかりの人間にガランジャの不満を言いそうになったははじめてだ。それもジャポニに。場所がどこであろうと、母国の悪口を言うことはガランジャの法律に反しているので、よほど気を許した仲間同士か身内でないと本音を言わない。
 ガランジャはおもしろい国さ。空港から大通りをいった広場に大きな寺院があって、そこを中心に商売別に街ができてるんだよね。遺跡や寺院が立派でよかったなあ。
 わたしはほほえんだ。
 ガランジャにきたんですか?
 ああ、ずっと前にね。河の大きな橋の下に通路があるなんてめずらしいよね。水位が低い時には通路がむき出しになって、露店がならんでにぎやかなんだ。商品を買いもしないのに、みんな俺によってきていろいろたずねたりおしゃべりをしようとするんだよね。
 きっとうれしいのですよ。あなたを知りたいのでしょう。
 突然、彼はガランジャ語をしゃべりはじめた。ジャポン語なまりのある発音だが正しい文法で。
 ガランジャの言葉を話せる人は少ないです。でもあなたは上手です。
 彼は布団の中で仰向けになって天井の鏡に映るわたしを見ていた。
 ジャポンにいるガランジャニは少ないよね。
 そうですね。わたしは変わっています。他のガランジャニとは違うみたい。
 彼は天井に映ったわたしを見て言った。
 うん。あんたは、俺がガランジャで話した人々とは少し違うような気がするよ。
 どこがですか?
 話しやすいというか、外国人という感じがしないよ。
 あなたもそうです。この国の人じゃないみたい。
 ジャポン語うまいね。だれかに習ったの、彼氏とか。
 いいえ。ガランジャのジャポン語学校で勉強してきました。ジャポンの小説もたくさん読みました。彼氏はいません。
 へえ、ほんとう。どんなのを読んだの?
 いく人かの作家の名前をあげた。彼は煙草に火をつけながら聞いていた。
 この国好きなの?
 まあまあ。
 こんな仕事をしていても?
 お金が貯まったらやめます。
 貯めて何をするの?
 お店を買います。
 何の?
 ガランジャの織物とかレリーフとかいろいろな。
 どこに?
 ジャポンにです。
 高いんだぜ。それにビザがないとね。
 彼は煙草を吸いながらわたしを見た。わたしは目をふせてだまった。煙が口から吐き出され、煙草から立ち上がる煙といっしょになった。わたしはせきこんだ。彼は空いている一方の手で煙りを追いやった。
 今日は何人目?
 二人目です。
 少ないね。
 お客さんを選びます。
 ああそうか。嫌いな奴とはしないんだっけ?
 はい。
 彼はだまって煙草をくゆらせていた。急に思い出したように腕時計を見やった。
 あ、もう俺の時間とっくに過ぎてるんじゃないの、もしかしてお金たくさん取られるのかなあ、やってないけど。
 しないのなら、お金はいりません、でもホテル代は払ってください。
 そうか。
 彼はまた天井を見た。わたしも彼もしばらくだまっていた。彼はつぶやいた。
 やらなきゃ損だよな。
 彼は上半身を起こすと、ジャケットを脱いでそばの椅子にかけた。ベッドのふちに座りシャツとデニムのパンツを脱いだ。彼はトランクスを脱いでふり向いた。
 脱げよ。
 ガウンと下着をすべて脱いで、毛布をかけて横たわった。
 女を買うなんてめったにないんだ。
 彼はベッドの脇のテーブルにおいてあった小さなビニール袋をやぶってコンドームを取り出し、自分でかぶせた。彼はベッドに上がり、ちらりと窓を見てつぶやいた。
 もう朝か。
 わたしも窓を見た。
 白濁した大気の向こうに、いくつもの箱を立てたようなビル群がおぼろげに見える。電灯やイルミネーションは消えて、もやの中にビルの陰影だけが立ちならんでいた。
 彼に向き直った。彼は毛布をよけてわたしの身体に視線をすべらせた後、身体を重ねて抱きしめた。わたしも彼も息が荒くなった。彼は両手をついて上半身を離し、さっそく性器をちつに入れようとした。ふと思いついたようにわたしの顔を見て、乳房をいくらかもんだ。キスもしないですぐ行為におよんだ。
 ローションをぬっていないのに、痛くないことにおどろいた。彼は上半身を起こし、わたしの両足を持って引きよせた。動きは激しくなり、やがて静止した。彼はコンドームをつけたまま、セックスなんて何年かぶりだよ、と床に下りてバスルームへいった。
 ベッドにころがったまま、シャワーの音を聞いていた。身体のいたるところに彼のふれた痕がのこっている感じがしたが、ぜんぜん不快ではなかった。ちつの内部にも彼の身体の一部をかたどったくぼみができたかのように、熱としびれがのこっていた。ちつの入り口にさわってみた。液体がしたたっている。こんなことははじめてだ。彼がもっと続けていたら、オーガズムに達したかもしれない。彼がシャツとトランクスを着けてバスルームから出てきた。
 入れば?
 彼はバスルームを指さした。ベッドから下りて洋服と下着を持ってバスルームにいった。シャワーを浴びている最中に、ガラス壁を通して彼をちらりと見た。彼は洋服に着替えていてベッドのふちに座って煙草を吸っていた。床の一点を見つめてじっと考えている様子だった。わたしが見ているのに気づいたのか、こちらに目をやった。
 着替えをすませてバスルームを出て、彼のそばにいった。彼は財布を手に持ち、お札を取り出した。朝までいたんだもんな。そう言って、紙幣を五枚ほどわたしに手渡そうとした。その中から二枚をぬき取った。彼は三枚をわたしの方に差し出したが、首をふった。
 どうして?
 あなたが一番よかったです。えんちょう料金はいりません。
 彼はきょとんとした。
 よかったって何が?
 いっしょにいたこととセックスです。
 ほんとう? じっとしていて声も出さないのに?
 わたしは言葉を失い、小さくのけぞった。
 このお金、受けとっていいんだぜ。
 いらないです。
 いいから取っとけよ。
 彼は三枚のお札をわたしの手の中に押しつけた。
 じゃあな、帰るから。
 彼はかばんを持って立ち上がり、部屋を出ていった。一人取り残されてしまって、ベルト織りのポシェットとルームキーを持って急いで後を追った。エレベーターの中でいっしょになった。彼は何も言わなかった。わたしはたずねた。
 お名前は?
 ヨウジロウ。
 彼は扉の方を向いたまま答えた。扉が開くと、彼は出ていった。彼はフロントで立ち止まり、ポケットからお札を取り出してしゅくはく料金を支払った。わたしはルームキーをフロントに渡した。
 彼はおつりをもらうとホテルから出ていき、繁華街の方へと歩いていった。後を追っていく。歩く人々の間に後ろ姿がまぎれこみ、一瞬見えなくなる。彼の背中を探した。すぐに見つけて、小走りに近づいていった。彼は人々の間を早足で歩いていく。後をついていくと急に彼がふり向いた。わたしの顔を認めると少し迷ったように、歩みをとめた。彼はあわれむようにわたしを見ていた。彼の前まで足を早めて近づいていくと、またくるよ、と言いふたたび歩きはじめた。
 その場に立ち止まって、遠ざかる後ろ姿を見つめた。彼の姿は往来する人々の一人になって遠くなっていく。やがて雑踏の奥へ消えていった。彼がいなくなってしまった方を、ずっと見ていた。

 ジャポンという国を、わたしたちはブラウン管を通して学ぶ。テレビではひょうきんな人たちが冗談を言い合っている。いっしょに住んでいるリムザムが、ナッツを食べながら笑っている。大きな声を上げて両手をたたく。この街にいる多くの外国人は、遠くに外出することを好まない。人々の好奇の入り混じったまなざしや冷ややかなそぶりにふれるのが嫌だし、入官のじゅんかいに出くわす危険もあるので、家にいてテレビを見て過ごすことが多い。とくにガランジャニはジャポンのテレビ番組が好きだ。ガランジャは番組が数少ないし、それも政府の検閲のかかったニュースや宗教番組ばかりだ。
 リムザムは時間があればテレビを見るか部屋の掃除をするかだ。わたしは綿糸をおび状に張った丸棒の片方を腰に固定して織物を織る。もう片方の丸棒は柱に固定してある。原始的なやり方で時間はかかるが、さまざまなものが作れる。この日は、リムザムの着古したデニムシャツの生地と綿糸を使って織っていた。彼女も織物を織れるが、この国にきてからはしない。
 テレビの画面では、舞台の上でこっけいな人たちがどたばた喜劇をしている。わたしはあまりおもしろくない。柱にかけた丸棒からわたしの腰にかけた丸棒まで張っているたて糸から、細い棒で一本おきに拾い上げてひもで固定したたて糸を引き上げる。二段になっているたて糸の間に細く切ったデニム生地を横から通し入れてから、細い棒を下げる。上下の逆転した二段のたて糸の間に物差しを差しこみ、前方に引いて打ちこむ。腰でたて糸を張りながら、同じ動作をくりかえし柱の方へいざりよっていく。テレビがあろうがなかろうが、リムザムがいようがいまいが、ずっとこの動作を続けて時間を過ごせる。できあがっていく織物を見ていると、わたしの古着の青いシャツもよこ糸にして織りこんだらすてきになると思いつく。わたしは腰に丸棒をつけたまま押し入れに近づき、あちこちがやぶれてへこんでいるふすまを開け、古着を探す。
 リムザムが観客の爆笑とともに笑い出した。この時、だれかが玄関の扉をノックする音が聞こえた。とたんに彼女の笑顔がとどこおる。わたしも動作をとめる。リムザムはまじめな顔つきになってわたしを見るが、わたしも首をかしげる。わたしたちは友達の部屋を行き来する時には、必ず携帯で連絡を取る。リムザムがガランジャ語で、だれ? とたずねる。
 とうけい局の者です。こくせい調査をしていますので、アンケートにお答え願いたいのですが。
 リムザムはテレビの音を最小量にした。わたしたちは息をひそめて身動きしない。
 あのう、とうけい局の調査員ですが、と声がして、うすい板の戸をたたく。リムザムはだまって不安げにわたしを見る。わたしは眉をひそめて息を殺した。ふたたび戸をたたく音がする。入官や警察ではないことはわかっている。だが、国の関係者と話すのはできるだけさけたい。
 戸をたたく音がやみ、足音が遠ざかっていく。静けさがやってくる。わたしは座り直し、リムザムはため息をついた。彼女は言った。
 ユディは警察でわたしたちの住所を言ったりしないかしら?
 ユディも身体を売っていたが、クスリがもとで警察につかまった。わたしとリムザムはクスリをやらないが、同じ商売をしている仲間内でクスリと関係している人間はたくさんいる。ユディはここからかなり離れたアパートにルームメイトと住んでいたが、そこにルームメイトの恋人がたびたび訪ねるようになってからはわたしたちのアパートに泊まることが多かった。わたしは言った。
 ユディの荷物はすべて向こうのアパートにあったのよ、わたしたちには関係ないわ。
 でもユディはわたしたちのことを言ったりしないかしら?
 リムザムが不安げな顔をする。わたしは少し考えてから、口を開いた。
 泊めてあげてたくらいなんだから、たぶん言わないでしょう。クスリ仲間じゃないんだし。
 そうよね、でも最近ね、携帯に変な電話がかかってくるの。無言電話よ。警察や入官が調べてるんじゃないかしら?
 まさか、そんなやり方しないわよ。
 そうかしら、ユディの荷物からわたしたちの電話番号や住所まで調べたんじゃないかしら?
 わたしはだまりこんだ。彼女はか弱い声で言う。
 嫌だわ、この携帯買ったばかりなのに、買いかえるお金なんてないわ。
 携帯のけいやく者の名前はわたしたちじゃないんだから、見つからないわよ。
 そうよね、高いお金を出して買ったんだもの、わたしたちの名前はどこにも出てないはずよね?
 たぶんね。
 でも……、と彼女は言う。
 ユディの携帯のせいきゅう書はこのアパートにきてたわ、それに彼女あての荷物もときどき届いていた。
 わたしとリムザムは顔を見合わせた。彼女は六畳一間の部屋をぐるりと見回す。柱にはきれつがあり、木目のゆがんだ天井にはいくつもの染みがある。畳の下はところどころくさっているらしく、不自然にへこんでいた。
 このアパート出たいわ、かび臭いし、とリムザムは鼻をくんくんとする。
 どこかあてがあるの?
 ミヤンのところはどうかしら?
 あそこはせまいわ、二人は無理よ、リムザム一人でどうぞ。
 タユランはどうするの?
 探すわ。
 わたしたちに貸す大家なんていないわよ。
 わたしはだまってしまう。
 大金もかかるのよ、タユランお金あるの?
 ……ないけど。
 ミヤンに三人で住まないかって相談してみましょうよ、家賃も安くなるわ。
 とリムザムは携帯のボタンをプッシュしようとした。彼女を押しとどめて言う。
 もう少し考えましょうよ、ミヤンには彼氏がいることだし、ユディはクスリをしていたからつかまったのよ、わたしたちは悪いことはしてないんだから。
 そうかしら、売春は悪いことじゃないかしら? とリムザムはつぶやく。
 多くのジャポニは、愛はうすくても、セックスだけはしたいのよ。やりたいからって、恋人のふりをするよりましよ。警察だってもくにんしてるじゃない。
 でももう嫌よ、つるっとしたジャポニのペニスなんて舐めたくない、この国の男は変なことを強要するわ、変わったことをしないと興奮しないのよ、あんなのほんとうのセックスじゃない。
 リムザムもお客を選べばいいのよ。
 それじゃもうからないわ。
 わたしたちはだまってしまう。織り具に向かい、張ったたて糸にさいたデニム生地を入れはじめる。
 早くすてきな人を見つけましょうよ。
 とわたしは言う。
 こんな国にいないわよ、早く稼いで国に帰りたい、家族のところへ帰って結婚して子供を産みたい。
 リムザムの口癖ね、帰国するのはかんたんよ、でももう正規のルートではジャポンにはこれないわ、昔とはじじょうが違うのよ。
 たぶんもうジャポンにくることないわ。
 そうなの?
 とリムザムの顔を見る。彼女はうなずいた。彼女は音のないテレビの画面を見つめている。
 だって、ここにずっといたってしょうがないじゃないの?
 わたしは何も答えないで、おびのように張った二段のたて糸の間に物差しを入れる。リムザムは言う。
 ビザはとっくに切れたし、仕事はないし、家はないし、身体がこわれたら終わりよ、ずっとかくれてなきゃいけないし、いろいろお金かかるばっかり。
 ガランジャに帰っても生活しづらいわ。
 どうして。タユランの家はお金持ちじゃない、わざわざジャポンにきてこんな商売しなくてもいいのに。
 きっとわたしは、リムザムともガランジャの人々とも生き方が違うのよ。
 どんな風に?
 おしゃれはできないし、恋人は作れないし、遊ぶところもないし、本も映画も何でもかんでも政府のチェックが入って、きゅうくつだわ。お見合いで結婚して、子供をたくさん作って、夫の両親とその家族と大勢で暮らすのが最大の幸せなんて理解できない。わたしはもっといろんなことをしてみたいの。ジャポンにいたら自由にチャレンジできる。好きな服だって着れるし、歌うことだって踊りだってできるのよ。お店を持つことだって……。
 むりよ、そんなこと。
 リムザムが口をはさむ。
 わかってるでしょう、たくさんお金もかかるし、ビザもおりないのよ。
 わたしはだまってしまう。
 結婚が一番幸せよ。ガランジャの男はやさしいわよ、ジャポンの男なんかよりはずっと。
 そう? でもきっとあなたにもわたしにも他の女性にも同じようにやさしいのよ、女性がみんな同じように見えるのよ。
 リムザムは返す。
 ジャポンの男だってそうよ、違うのは顔と年齢だけ。
 ジャポンの男にだって好みはあるわよ。
 そうね、若い美人が好きよ。
 ガランジャの男だってそうじゃないの。
 いいえ、ガランジャの男はわたしたちを人間として選ぶわよ、タユランなんかじさん金が多いし家柄もいいんだから、結婚話はいっぱいあったじゃない。
 でも、わたしでないといけないなんて人はいなかったわ。
 そんなこと言ってると、結婚できないわよ。ジャポンの男はもっとざんこくよ、やさしいのはさいしょだけ、ほんとうのことを知ったりほしいものが手に入ったら冷たくなるわ。わたしの身体をこんなにして。
 リムザムはTシャツのえりぐりを引きのばして見せる。いたいたしいうす茶色の線のようなあざがのぞく。
 もっといい人を選べばよかったのよ。
 セックスをするまではやさしかったの。
 わたしは口をつぐむ。二段のおびのように張ったたて糸の端から、細くさいたデニム生地が長く出ている。それを鋏で切って先端をたて糸に織りこんで留める。
 もうすぐリムザムの帽子ができるわ。
 彼女はちらりとわたしと織物を見て唇をゆるませる。わたしの心はそのかすかな笑みにほぐされる。物差しと腰に取りつけた丸棒との間にできた裂織の布地の点検をする。インディゴブルーの細く切ったデニム生地に麻糸や藍色の綿糸が交差している。あまり正確ではないたて糸のかんかくとデニム生地のふきそくな厚みが、そぼくな趣をかもしだしている。布地が仕上がった後で、帽子の形にぬい合わせる。少しずつできあがっていく織物を見ていると、うれしくなる。糸とぼろ切れの素材が、織り目のととのったいろんな色の混じったきれいな布に姿を変えていく。できあがった織物は、わたしが生きている証だ。
 ナッツの入った皿が敷物の上に取り残されている。リムザムは何も食べないで音のしないテレビ画面をながめている。テレビの中ではあいかわらずどたばた喜劇をやっていて、人々が笑っている。
 彼女はため息をついて、わたしの作った敷物の上にあおむけになり、まぶたを閉じてじっとした。
 ふいに、天井の電灯がてんめつしはじめる。二つある電球のうち一つがだめになってしまったのだ。四方を取り巻く、染みやひびの入っている黄土色の壁が、ますますうす汚く見える。織物の色彩もさえなくなる。リムザムがまぶたを開けて、買ってくるわ、と身体を起こした。
 一人で平気?
 だいじょうぶよ。
 リムザムは財布をジーンズのポケットに入れて、部屋を出ていく。一人のこされた。四角い箱のような空間が、暗くなったり明るくなったりしている。どこから入ってきたのか、小さな蛾がてんめつする電球の周りをとんでいる。ときどき電球にぶつかり音を立てる。テレビ画面に、赤い団子鼻の模型を鼻につけ、舌を出した中年男の顔が大映しになる。観衆の笑う顔、顔、顔。人々が一斉に両手をたたき、大きく開いた口に白い歯がのぞく。
 小さなはじけるような音がして、てんめつしていた電球の光が消えてしまった。もう一つの電球だけが、部屋を弱々しく照らしている。化粧板のテレビ台、ナイロンカバーのかかった洋服かけ、日焼けしたカーテンが、うす暗い空間にしずんでしまう。織物をする手をとめて、じっと座って彼女を待っていた。

 せまいカプセルのような部屋に、ベッドだけがおいてある。上方に小窓があり、隣のビルの裏側の汚れたコンクリート壁が見える。ひび割れや黒い染みのある壁面があらわになっていて、配管が何本も交差している。裸でベッドの端に座って両足を広げていた。その前で鼻下にほくろのある若い男が、トランクス姿で床に膝をつき、医学雑誌の女性性器の写真とわたしのとを見比べていた。男はにやにやとした笑いを浮かべながら、私の股間をのぞいている。
 これがだいいんしんだよね? と写真とわたしのとを指で交互に指し示す。
 そうです。
 適当に返事をする。
 しょういんしんはあのひだかな?
 男は指でびんかんな部分にふれようとした。本能的に身を引く。男はリュックサックの中からメガネケースを取り出してメガネをかけた。
 クリトリスはどれかな?
 男はわたしの太股を持って広げて、顔を性器に近づける。ふたたび指でふれようとする。股を閉じようとしたら男の顔に陰が走ったので、脚の力をぬいた。男はわたしの脚を広げて、性器を凝視する。
 ははあん、これか、と指をびんかんな部分に近づける。
 この男にさわられると痛いので、気が気でない。男の指が粘膜にふれる。そこがクリトリスでなかったことがせめてもの救いだった。男はわたしを上目づかいで見た。わたしは、あはん、と言った。男は人差し指を立て、こんどはちつの中に挿入した。男はわたしの顔をうかがった。わたしは、ああ、と言った。男はにやりと笑った。男はトランクスを脱いだので、わたしは素早くコンドームをつけた。ほうけいだったがどうでもよかった。男はわたしを抱いてひとしきり身体をもてあそんだ後、ベッドにひっくり返って言った。
 コンドームを外して口で強くやってほしいんだよな、俺は皮が厚いからよ。
 わたしは困った。コンドームを外すのは危険だ。ためらっていると、男は言った。
 あと三千円はずむからさ、口に出しやしないよ、早く早く。
 は、はい、と返事をしてコンドームを取り、ペニスを口に含んだ。
 もっと激しく。
 あ、はい、と口の上下運動をした。
 もっとだよ、もっと強く。
 男はわたしの頭を両手で持って、オナニーグッズであるかのように勝手に動かした。顎が痛かった。息もできなくて苦しい。ときどきいぶつが咽頭のおくの方に当たり、吐きそうになる。顎の疲労がげんかいに達したとき、生暖かい酸味のある液体が口の中に入ってきた。あわてて口をペニスから離し、男の両手から逃れた。精液が男の下腹部に流れた。口の中に精液を含んだまま、シャワールームへとかけていった。
 不覚だった。男の言葉を信じたのがいけなかった。洗面所で吐き捨て、何度も口をすすいだ。常時じさんしている殺菌剤入りうがい薬でうがいをした後、お客さんは傷ついたのではないだろうか、とふと思った。ドアのすきまから部屋の方を見ると、男は横たわったまま、ふちゃくした精液をふかないでじっとしていた。ベッドに戻り、男の横に座った。
 お客さん、だいじょうぶですか?
 ティッシュで男の下腹部についているものをふき取った。男は天井を見つめたまま動かなかった。タイムリミットまでまだ時間はあった。事が終わったから、服を着て帰ろうと思ったが、お金をはずむと言った分のお金はまだもらっていなかった。男の横に座り直した。
 明日までいられる?
 男はたずねたが、何も言わないでいた。生のペニスを口に含んだ分のお金はまだ受け取っていない。危険を犯したというのに。
 男は上半身を起こしリュックサックを引きよせ、財布を取り出して二万三千円のお札をわたしに渡した。この男からはすでにショートで三万円もらっていた。
 これでどう、俺学生だしさ、金ないんだよ。
 わかりました、一晩だけ。
 男はわたしを抱きよせて乳房や乳首をしゃぶり、唇を吸盤のようにすぼめて胸元や首すじに吸いついてきた。吸盤はうなじから頬へと移行していった。吸盤は音を立てながら頬のあたりを何度も吸着した。それがどこにいき着こうとしているのか察知して、吸盤が目の前に近づく度に顔をそらした。
 チュウして。
 男はすぼめた唇を突き出して、わたしの唇を追いかけた。わたしの身体を抱きしめたまま唇を目指して顔に吸着してくるので、後ろへ反り曲がらねばならなかった。わたしの上半身はつばでべとべとになり、すえたにおいが立ち上がっていた。一晩だけ恋人、と男は乳房をもんだりお尻にさわったりした。吸盤の奥から長い舌を出してきて身体を舐めまわした。そのうち、もう一ラウンドと言い出したので、あわてて男にコンドームをかぶせた。男ははりきってペニスをだいいんしんの割れ目に突き立てようとした。すばやく身をかわしてちつにローションをぬりたくった。レスリングのような交わりが終わった後、男はぐったりとして大の字にベッドに横たわった。わたしも横たわった。小窓の向こうはすっかり夜で、隣のビルの裏側は、人工光の明かりが混じった暗闇にしずんでいた。男はつぶやいた。
 あーあ彼女ほしいな。
 わたしも彼氏がほしいわ。
 いないの?
 男はたずねた。わたしはうなずいた。
 じゃあさ、俺たち恋人になろうよ。
 男は手をわたしの下腹部におき、陰部の方に近づけてきた。
 ただでやらしてくれるだろ。
 嫌よ、もう帰るわ、と男の手をよけた。
 明日までいるって言ったじゃないか。
 先ほどもらったお札の中からえんちょう料金を男の横において、洋服を着はじめた。男は舌打ちをして上半身を起こした。
 そんなに俺を嫌か? 言っとくけど、俺はえらんだぜ、お前みたいな外人のパンパンとは不つり合いさ、少しは喜べよ、俺は医者の卵だぜ、いいことがあるかもしれないよ。
 いいことって?
 わたしはたずねた。マンションでも買ってくれるのならよいと思ったが、目の前の学生風の男には土台無理だろうし、たとえお金持ちでも、よその国からきたビザの切れた街娼にみつぐお人好しの男はいない。それに違法なことをしているわたしが、ひなたのジャポニお坊ちゃんを信用してよりかかるのは危険だった。
 さあな。
 男はにやにやとうす笑いを浮かべて、わたしを押したおし太股をつかみ、力ずくで股を開いた。
 もっとよく見せろよ、舐めてやろう。
 嫌、馬鹿にしないで。
 男の腕から逃れて、ベルト織りのポシェットを手に持って言った。
 それをするならあと二万円。
 あーあ、もうすぐ試験だしな、帰るか、チューもしてくれないしよ。
 男はベッドから下りて、洋服に着替えはじめた。わたしは言った。
 医者の卵なのに、恋人いないの?
 まあね。
 どうして?
 じゃああんたはどうして俺の恋人にならないの?
 あんたとただでセックスをするのは嫌よ。
 セックスなんかしなくたっていいんだよ。
 じゃあ何をするの?
 さあな、話しだよ。
 何を話すの?
 あんたはガランジャの話、俺は医学の話。
 それで?
 男は一瞬考えた風だった。
 ま、話すこともないっか、医学のことをあんたに話してもしょうがないし、ガランジャのことだって本に書いてあるし。
 男はリュックサックを背負った。わたしと男は部屋を出た。せまい階段を下り、黒いシールで目かくしをしてあるフロントを通過し道路に出た。夜もふけていて、店の出入り口を囲む電球はきらびやかにてんめつし、ガラス製の看板は明るく灯り、さまざまな形や色の電灯が歓楽街をいろどっていた。パチンコ店やゲームセンターの音、人々の騒ぐ声、ポン引き男の声、音楽やかくせい器を使った音がにぎやかに入り乱れている。男は振り向いて言った。
 またきたら安くしてよ。
 考えておきます。
 男はわたしから離れて、わたしのいく道とは反対方向へ歩いていった。
 わたしとのセックスで彼が楽しめたのかどうかわからない。わたしが感じないので、きっと楽しめていないと思う。もしわたしの方からも望む気持ちがあったら、つばや粘膜にふれるのが気持ち悪くなったりしない。そんなことはわかっているはずだ。それなのにお金を支払ってまで知らない女と、ばい菌がいっぱいいて、病気がうつるかもしれないセックスをしたがるのが、わからなかった。

 壁や床へしょうとつする音と、棚へぶつかり物が落ちる音やガラスが割れる音などがいっせいにひびいた。
 どこへいってたんだよ!
 なまりのあるガランジャ語のどなり声が空気をさいた。色黒で彫りの深い顔立ちのムハンドがミヤンをにらみつけて、仁王立ちになっていた。ミヤンは壁際で鼻血を出し、しゃっくりをしながら泣いている。リムザムがうろたえてミヤンにかけより、肩を抱いて言った。
 わたしたちと外でコーヒーを飲んでいただけよ。
 お前ら口合わせしたんだろう、ガランジャの女は信用できねえ、ほんとうのことを言えよ、男を誘っているのを俺の友達が見たんだぜ。
 ムハンドはミヤンの胸倉をつかんだ。わたしはあわてて言った。
 嘘よ、わたしたちここへ引っ越ししたいと思って話をしていただけよ。
 引っ越し?
 ムハンドはいぶかしげな目つきでわたしを見た。
 この部屋を商売に使おうってんじゃないだろうな、ミヤンはもうやめたんだ。
 そんなことしないわよ、とわたしは言う。
 ミヤン、お前ほんとうに外でコーヒー飲んでいただけか?
 ムハンドはミヤンを見下ろした。彼女は泣き止んで大きくうなずき鼻をすすった。リムザムがティッシュで鼻血をふいてあげた。
 ほんとうにコーヒーを飲んでお話をしていただけよ、とミヤンは泣き声で言う。目は涙で赤く腫れている。わたしは敷物の上に座った。
 ほんとうよ、わたしたちはアパートを探しているの。
 ムハンドも床にあぐらをかいた。わたしの顔を見ながら煙草を取り出す。
 どうしてここに引っ越ししたいんだ?
 わたしたちのアパートは危ないのよ、たぶん入官も警察もわたしたちの住所を知っているわ、ユディがつかまったんだもの。
 ムハンドは舌打ちをした。
 大ばかだよ、あの女。
 彼は煙草に火をつけ一服吸い、床を見つめて考えにふけった様子だった。ミヤンは丸めたティッシュを鼻の穴に突っ込み、充血した目でムハンドを見ていた。リムザムがわたしの隣にきて座った。彼はミヤンを見て言った。
 お前、俺がここに住んでいることを言ったのか?
 ミヤンは目をまたたいてわたしたちとムハンドを交互に見て言った。
 あ、あああのね、一昨日から彼ここに泊まっているの。
 住んでるんだよ、とムハンドは不機嫌に訂正した。
 そ、そうそう、住んでるのよ。
 わたしとリムザムは顔を見合わせた。先ほどファーストフード店で、ミヤンはわたしたちに一人で住んでいると言っていた。ミヤンは彼のために街娼をやめて仕事がなかったし、ムハンドは何の仕事をして彼女をやしなっているのか、わたしたちは知らなかった。この平日の昼間に、彼がなぜここにいるのかもわからなかった。彼は言った。
 明日荷物を持ってくるよ。
 彼女はしきりにまばたきをして、ムハンドとわたしたちを交互に見ながら立ち上がった。
 ジュースでも買ってくるわ。
 どこまでいくんだ?
 四つ角のコンビニまで。
 何分ぐらいかかる?
 十分ぐらい。
 まっすぐに帰ってこいよ。
 ムハンドは煙草の煙を吐きながら、部屋を出ていくミヤンの後ろ姿を見ていた。彼はわたしたちの方を向き直り言った。
 住みたきゃ住んでいいぜ、家賃は半々。
 わたしたちは部屋を見回した。六畳一間に四畳半の台所だ。仕切りもないせまい部屋で、ミヤンとムハンドのやり取りを目の当たりにして四人で暮らすのは気が重い。わたしとリムザムはだまって目を合わせ、ミヤンの帰るのを待った。ムハンドは煙草を吸いながら宙の一点を見つめ、考えにふけっている様子だった。リムザムがムハンドの顔をうかがいながら口を開いた。
 今日はお仕事にいかないんですか?
 ムハンドは物思いからさめたように顔を上げて、彼女を見た。
 ん、ああ、今日はないんだよ。
 彼はまた煙草を吸い、同じ姿勢のまま視線をそらした。彼の携帯がなった。ムハンドはガランジャの言葉で、男友達と話しているようだった。仕事の話なのか、切迫した雰囲気で眉間にしわをよせてまくし立てている。

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