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眠る月(1)
                              

松直伽       


 オイルの浮いた黒い波が、静かに堤防に打ち寄せる。細かな穴があいて虫食い状態になっているコンクリート壁に、波がぶつかり泡沫ができる。波が引くと、汚れた暗い壁面が現れる。ところどころ壁の表面が崩壊していて、フジツボがこびりついている。
 風が吹く。だが潮の匂いはない。工場が廃棄するオイルや煙や化学物質の匂い、生コンクリートや砂塵の匂い、メタンガスや排気ガスの匂い、そういったものに海の匂いは打ち消されている。
 海は穏やかで淡い灰色をしている。なだらかに曲がる湾の両端には、鉄鋼の細片を寄せ集めたようなごみごみとした工業地帯が霞にかかって見える。空全体は層雲で覆われ、濃淡のある白い平面のようだ。地平線はゆるやかな弧をえがいていて海面は静止している。遠方に貨物船が小さく海面に浮かんでいる。
 陽光が瞳を射す。眩しい。だが温もりはない。連日真夏なみの高温を記録しているのに、暑くない。汗がこめかみから伝って落ちてくるのがわかる。冷ややかな汗。
 背後に立ち並ぶ産業廃棄物処理施設の工場から、時折ダンプや重機の音がする。遠くの埠頭にいくつかの発動機船が繋がれていて、エンジン音が潮風に乗ってくる。
 堤防に積み重ねられた廃棄物のタイヤに座り、缶コーヒーのプルトップを引いて煙草を吸う。
 洋が隣に座っていて、食べることに熱中している。周りのことなど眼中にないという様子で、ひたすら食物を口に放り込んでいる。洋は昼食のために、いつも自分で作った料理をプラスチックの容器に入れて持ってくる。この日は肉と野菜を炒めたものだ。すべて食べ終わり、彼は缶の鳥龍茶を飲んでいる。僕はずっと缶コーヒーを飲んでいた。ようやく彼は口を開く。
 今日もそれだけ?
 うん。
 腹へらないか。
 いいや。
 お前ガリガリじゃないか。そのうち身体こわすぜ。
 彼は僕の身体を哀れむように見る。
 ま、俺だってダイオキシン食ってるけどさ。
 洋は、後方の広い敷地にわたる施設を顎で指す。焼却炉の何本かの煙突から、白い煙が立ち上がっている。僕は呟く。
 俺たち吸ってんのかな。
 ああ。
 彼は鳥龍茶を飲み干し、缶を少し離れた所にあるごみ入れのドラム缶に投げ入れた。
 毎日よく弁当作るな。
 と感心してしまう。彼は連日夜中まで仕事をしているというのに。
 洋は僕の幼友達で、母親の手だけで育った。父親は彼が幼い頃に逝ってしまった。二人だけの家庭生活なのに、明るい様子だった。僕が家を訪ねると、彼の母親がよくカレーやハンバーグなどをご馳走してくれたものだ。洋は母親の料理を見習い、時々僕に作ってくれた。小学生の頃、九九を三人で言い合って練習したのが楽しかった。洋は学校の勉強をこのように母親から教わっているのかと思うと羨ましかったのを憶えている。
 僕の母親も仕事で忙しかったが、炊事や家事はすべて、看護婦を兼ねた叔母が通いでやっていた。僕はただ勉強さえしていればよかった。僕には両親がそろっていて、父親の経営する病院には親戚が大勢いたのだが、時々洋が羨ましくなることがあった。大学へ入学した時期からもう何年も会っていなかったというのに、今でさえも。
 洋とはこの夏の始めに、街の書店で偶然再会した。彼は、モノクロの都市を映し出している写真集を買い、僕はアルバイト情報誌を探していた。僕たちは近況を話し、仕事や大学での調子を尋ねた。彼は大学を卒業し編集プロダクションでライターをしていて、忙しいを連発した。僕は何年も医大を留年していて、身体に異常もないのに大学を休みがちで調子が悪いと言った。調子の悪い原因が何なのか、自分でもわからなかった。洋は、優等生だったお前が意外だなと言い、それから少し考えてお前ならそうかもしれないなと呟きうなずいた。
 大学の夏休み期間だけ、洋の仕事を手伝うことになった。彼の主題である産業廃棄物による環境汚染について、臨海工業地帯で調査取材することになった。こうして夏休みが過ぎた。だが、とうに夏休みは終わり新学期が始まっても、いつの間にか身体がずるずると勝手に休暇を引き延ばしていた。大学に戻って勉強することを考えると、気が重かった。医科大学の前半の年の夏休みだったが、何度も留年を繰り返していたので、入学当時の同期生と比べるとかなり遅れをとっていた。大学に早く戻らなければいけないとも思う。学費は高額であったし、まして留年しているのだから両親に負担をかけたくなかった。にもかかわず大学に通う気力が出なかった。白衣を着て医学の勉強と実習に明け暮れることを考えると、息苦しく暗い気持ちになるのだった。
 それよりはオイルで汚れた海を見ながら、遠くから聞こえる工場や港の騒音、時折通り過ぎる大型トラックの音や排気ガス、ダイオキシンの舞う大気の中で、資料写真を取ったり人々の話を取材したりパソコンで原稿を作っている方がましだった。
 洋はカメラ機材が入っているショルダーバッグからクロスを取り出し、一眼レフカメラを拭き始める。陽に焼けた身体にシャツとジーンズといういでたちでカメラをいじっている姿は、昔と変わらない。カメラは彼個人用のもので、仕事では使っていない機種だ。ジッパーの開いたバッグの中にカメラ雑誌が見える。中学時代から写真家の篠崎一氏を尊敬していて、その頃の彼の部屋は氏の写真のポスターだらけだった。最近でも雑誌に載っていたりすると僕に見せたがる。
 お前大学どうすんの?
 洋がカメラ機材を整理しながら、僕の頭の中を見抜いたように言う。
 戻りたくないんだよな。
 この仕事は好きか?
 わかんないけど、講義室で寝ているよりはましさ。
 そうか。
 洋はどうなの?
 彼は首を傾げる。
 生活のためかもな。俺は本当は写真家になりたんだ。
 やりたいことがあるって、いいよな。
 お前にはないのか?
 別にないよ。
 水泳が好きであるとか、音楽を聴くのが好きであるとかというような、趣味程度の漠然とした欲求はあっても、生涯をかけて何かの仕事をしたいという、明確な強い欲求はなかった。
 洋はカメラ機材から目を上げて言う。
 じゃあ何が楽しみで生きてるの?
 これかな。
 そう言って苦笑しながら、煙草を挟んでいる方の手をぶらぶらさせる。
 洋は笑って言う。
 囚人みたいなこと言うんだな。
 そう言われてみればそうだ。牢屋に入れられ、煙草を吸うことだけが楽しみになっている囚人みたいだ。あまり煙草を美味しいとも感じないのに。
 女の子とも出かけないのかよ?
 まあな。面倒くさくて。
 コーヒー缶をごみ入れのドラム缶に投げ入れる。そして理依を思い出す。理依とは長い期間にわたって肉体関係があるつき合いだが、彼女について言うべきかどうか迷う。僕と理依は同じ年の春に医科大学に入学して以来、お互いの生活に関わってはいるが、恋人と言えるのかどうかはわからない。
 洋はポツリと言う。
 なあ、クラブに踊りにいってみないか。気が停滞している時の対症療法さ。
 踊り? あまり気がすすまないな。
 なんで?
 踊れないし……。
 自分のやりたいように身体動かせばいいんだよ。
 ……それが、できないんだよな。
 簡単だよ。音楽に乗ればいいんだよ。
 そういう場所に一度だけ行ったことがあったが、どんな風に踊っていいのかわからなかった。見様見真似で踊っていても、他人から変な踊りだと思われやしないかと気になり、面白くなかった。実際僕の踊りは下手だった。そのせいか、熱く高揚して踊っている人間に対し、不快感を抱くようになっていた。僕の場合、それは踊りに対してだけではなかった。何事に対しても、没入することへの軽蔑と気恥ずかしさと不安があった。過剰な自意識をそぎ落とすことは、しようと思ってもできない、あるいは機会がなかったせいかもしれないが、僕にとっては未知のことだった。
 だが、心のどこかで、傍観者的な自分に対するもどかしさや嫌悪感、彼らへの羨望や嫉妬を感じていたことも否めなかった。結局のところ、薄っぺらのプライドや知識で武装した自意識の裏には、人に嫌われるのではないか、馬鹿にされるのではないかという自信のなさがへばりついているものだから。
 結局僕は、洋と彼の恋人の佑希とで、深夜に開かれる“アラヤ”というパーティの催される倉庫街の地下へと入っていくことになった。

 そのクラブは臨海工業地帯の跡地にある倉庫の地下にあった。暗い階段の下から重低音の振動が地上に伝わってくる。厚い鉄の扉を開けると、暗闇と音の激流がなだれ込んできた。暗がりの中でうごめく人間たちの群れ、群れ、群れ。熱気。汗と香の混じったような匂い。鼓膜を突き抜けるトランステクノの電子音。無機的なリズムが、コンクリート剥きだしの倉庫内を大音響で打ち鳴らしていた。高い天井の暗がりには太い鉄筋コンクリート梁がいくつも通っていて、隙間から発する光線が、ときおり暗闇の中を貫く。
 洋と佑希は無邪気ともいえる乗りで、すぐに踊りの群れの中へと入っていった。
 彼らはふざけあい踊り始める。洋が僕を見て大げさに身体を動かす。
 ためらいながらもらい笑いをして、ジンの入ったプラスチックのコップを持ち、倉庫の隅の巨大なスピーカーの裏を通っているパイプに腰掛けた。フロアでは大勢の人間たちが身体を動かしている。彼らは自分たちの躍動の中に入っていて、僕みたいな冷めている人間はまるで眼中にないかのようだ。熱気と激しいリズムの中で、魔術にかかったように群れで踊り狂っている。恍惚とした表情で汗をまき散らしながら。踊りに没入できれば楽しいだろうが、フロアに入ることにはためらいがある。
 洋は踊りながら、顔見知りと合図を交わしている。
 自分と外界の境にある透明なガラスを通してみるように、彼らを眺めた。
 いつからだろうか。いつも外界を傍観者として眺めていた。小学校時代から、いやそれ以前からかもしれない。運動会で披露する生徒全員による踊りや行進、教師が黒板に書く数値や用語、家庭教師が唾を飛ばしながらする英語発音訓練、皆いっせいに身体を曲げたり深呼吸をしたりするラジオ体操、ぞろぞろと列を作って古都の寺院をまわる修学旅行、もう着いたのよいつまでもそこにいないで早く出て遊びなさいよと自家用車の窓ガラスを外から叩く母親、沢山の教科書や参考書、紺色の制服に身を包んだクラスメイトたち、流れゆく現実を、いつもガラスを隔てて眺めていた。全てにおいて僕には主体性がなく、他者に操られているかのように手足を動かしていた。それでも特に滞りもなく日常が過ぎていった。教室の前列の席に座り、勉強を無難にこなし、学級委員長などもやっていた。僕自身は生きていなくても、何かが欠けていても、それでも見かけ上は真面目で大人しいお坊ちゃんとして、問題なく生活することができたのだった。
 そのめっきが剥げて、正体が露呈してきたのは大学に入ってからだった。講義室での僕の最も落ち着く場所は、最後方でそれも端の席だった。講義中、先生の目を逃れて居眠りや読書ができるから。それにそういった場所は、やはり何らかの理由でやる気のない連中の掃き溜めになっていて、一種の安らぎさえ感じた。
 洋はリズムに乗って跳躍するステップをしながら僕に近づいてくる。来いよ、来いよ、と彼は手招く。
 躊躇して目を逸らす。
 おいでよ、と佑希も近づいてくる。
 あんまり踊れないよ。
 やりたいように身体を動かせばいいのよ。
 好きなように踊るのさ。
 洋は両足を広げ、身体をくねくねと動かし、両手を回して大袈裟に踊る。
 好きにしてよいというのが、僕にとっては一番辛い。欲するもの、それがすぐに解ればどんなに楽だろう。こうして考えている間にも、彼らは好きなように楽しんでいる。僕は一人残される。どうしよう、どうしようと、快活に走っていく仲間を見ながらうろうろしている。
 佑希は僕を見て笑いながら、両足を交互に踏み透明な珠を両手で転がすような振りをする。
 面白い踊りだね。
 座ったまま彼女を見上げて言う。
 音楽はさらに激しいリズムになる。
 洋は口笛を吹く。彼らはお互いに笑みを投げ合い、音の波動に同化し跳躍し続ける。
 音楽は多種多様の打楽器がいっせいに鳴り響くリズムに移り変わる。
 ようやく立ち上がって、踊る人々の輪の後ろに加わる。洋と佑希が、踊る人混みの向こうから僕に手を振って合図する。僕も彼らに手を上げる。ぎこちなく身体を動かす。
 洋が僕を見ている。周りを見渡すと、それぞれが自分の踊りに没頭している。誰も僕のことなど気にしてはいない。見様見真似で踊る。
 すぐに疲れて、再びスピーカーの裏のパイプに腰掛ける。
 煙草を吸い、プラスチックコップの底に残っているジンを飲む。
 倉庫内を見渡しても、僕のようにただ座って眺めている人間はいない。フロア内は盛り上がっていて、ほとんどの人間は踊っている。
 倉庫の隅にある木製のコンテナの上に、一人の女性が座っている。彼女は黙って、熱狂的な踊りの渦を見ている。顔は暗がりで見えないが、なぜだか美しい印象を受ける。ふてくされているようにも、淋しそうにも、冷たそうにも見える。彼女の周りに、暗い静かな水を感じる。澄んでいるが、底が見えない。水がとてもきれいなので、さらに奥を見ようとする。だが、水の層は奥になるにつれて暗くなり見えなくなる。
 あきらめて洋たちの方に視線を移す。彼らは僕の存在を忘れたかのように、踊りの熱気とリズムにとけ込んでいる。洋は単調に繰り返される打楽器の音と一体化し、全身が筋肉になったかのように、力強く敏捷に身体を動かしている。彼のTシャツは、肌が透けて見えるぐらいに汗で濡れている。彼は踊りながら目を瞑り自分の中に没入していく。
 煙草を取り出し火をつける。
 このまま目の前にある道を歩めば医者として両親の経営する病院に収まり、物質的にも社会的にも立派な将来が待っているというのに、楽しいと感じられることなど何一つない。かつて楽しいことなんてあっただろうか。
 子供の頃から、学校や学習塾やクラブ活動などに身を置いてはいたが、ただなんとなく、将来のために、仲間から秀でるために、周囲の称讃を得るために動いていた。それで良いのだと思っていた。誰も僕をとがめなかったし、優秀な成績を取れば皆から一目置かれた。医者になりたいと言えば、両親は嬉しがり、教師やクラスメートは当然のことして納得した。もの心つく頃には、家庭教師が僕の部屋を頻繁に出入りし、学習塾やスイミングクラブなどのスケジュールが生活を取り巻いていた。化学式や英単語などをひたすら覚えていた。なぜそういったものを覚えなければいけないのかよくわからなかったが、成績が良ければ、両親や学校の先生は機嫌が良かったし周りの生徒からも一目置かれた。模擬試験の上位に僕の名前が出ると、両親は手を叩いて喜び担任教師は賞賛し生徒たちは尊敬と羨望の眼差しを僕に向けたので、優越感にかられてますます勉強した。学校と講習と自宅の往復の中で、出された課題を飲み込んで生活することは、意外にたやすく楽なことだった。それで良いのだと思っていた。周囲に波音を立てることも、誰からも咎められることもなかった。時々疲労や、背後にぽっかりとした闇を感じることがあった。その空しさがどこからやって来るのか、わからなかった。だが生活は問題なく過ぎていった。
 何ら問題はないはずだった。だがいつ頃からか、背後に穿たれた闇の穴を、無視することはできなくなった。どこから来るのか、疲労がやって来た。ずいぶんと前から、整えられた表面下で、何かが腐食しつつあった。
 またあの女性を見る。深遠な水の気配が目尻に迫ってくる。相変わらず顔は闇の中にある。彼女を取り巻く水面がなだらかに揺らめいているのがわかる。透きとおった水だが、深海のように薄暗く静かで、はかり知れなく深い。
 近寄って、その水の中に浸ってみたい。渇きは潤されるかもしれない。だが、誰かがその水に無遠慮に手でもひたそうものなら、ぴしゃりと頬を打たれそうだ。その水は僕に力を与えるかもしれないが、誰の手も届かない奥深くに、厳しい瞳がちらついている。
 その水の揺らめきに懐かしさを感じる。かつて僕の身体は水の中に浸されていた。心地よい暖かさに包まれていた。身体の奥にある凍てついた氷がだんだん溶け出していき、その水に入り混じっていった。氷が溶けるにつれて軽くなり、周囲の暖かい水が僕に流れ込んできた。身体の奥から熱が生じた。僕は動き始め、重さがなくなった。水の中を泳いでいき中心へ行くと、だんだん温もりと明るさが増した。光がやってきた。闇を被っても被っても弾いてしまう、光の集束だった。
 洋に肩を揺さぶられて目が覚めたのは、すでに明け方で、熱気を帯びたあの祭儀的な舞踏空間は閉じられていた。夢を見ていたのだろうか。あの女性はもういなかった。人々の没我的な高揚と、身体から発せられるエネルギーが、まるで嘘のように消え去っている。
 人々はいつもの社会的な仮面をつけ、ぞろぞろと出口に向かって階段を登っていた。洋と佑希と僕は、人々に続いて階段を登る。上方にはぼうっとした薄明かりが見えている。外は霧が立ちこめていて漠とした明るさになっていた。清冽な霧が階段を伝っておりてくる。階段の踊り場のところで数人の男女が輪を作っていて、先ほどの黒衣で身を包んだ女性が、ブルーのボブヘアの女の子と話をしていた。彼女は仲間に別れを告げて、輪から出てきた。
 彼女の横顔を見た時、懐かしい水の感触を、再び頬に感じた。親和性のある水の揺らぎ。温もりがあるにもかかわらず、彼女は淋しそうだ。純粋で壊れそうな透明感がある。
 彼女の横顔がこちらへ傾き、瞳がすばやく僕を捕らえた。紅い唇がかすかに開き、洞察するかのように彼女の瞳が僕を追う。その視線は、一瞬のうちに僕の冷え冷えとした心に届いた。前から彼女を知っているかのような親しみを覚えた。僕たちはしばし見つめ合う。
 自分でも気づかぬうちに、自然にうなずいていた。彼女もうなずきかけたが途中で止めて、不安げに僕を凝視した。
 あのさ。
 と声をかけた。
 彼女は身を引いて、上目遣いで僕を見つめた。
 ちょっと話でも……。
 と言いながら一歩を踏み出すと、彼女はくるりと階段の方を向いて歩いていった。僕も、階段を昇っていった。
 彼女は急に駆けて上がり、人々の群れの中に後ろ姿が消えなくなった。
 階段を駆け昇って路上に出ると、交通のないひっそりとした歩道を、早足で歩いていく彼女の後ろ姿が見える。僧衣を模した踝まである黒衣に腰まである長い髪の姿が、霧の向こうへ遠ざかっていく。
 彼女は後を振り返ることもなく歩いていく。
 洋と佑希に別れを告げ、彼女の背中を見失わないように追った。
 彼女は急に横断歩道のところで立ち止まり、車の来ていないことを確認するためか、こちらを少し振り返った。
 一瞬、小さな顔を成す頬から顎にあけての繊細な輪郭と白い肌が見えたかと思うと、黒い切れ長の瞳が僕を認めた。だがすぐに伏せ目になって横断歩道を渡らずに早足に遠ざかっていった。急いで追っていく。
 彼女は濡れた路上を急ぎ足でいき、地下鉄の入り口に消えた。駆けていって地下鉄の入り口まで来ると、彼女の姿はなかった。二段飛びで走って降りて自動切符売り場のところにきた。遠くから電車がやってくる音がする。辺りを見回すが、彼女はいない。自動改札口から見える向こう側のホームには、誰もいない。
 振動と轟音とともに電車がホームに突入してきた。車内にはほとんど乗客がいない。すぐに停まり扉が開いた。こちら側のホームにいるに違いない。自動改札口から入ろうとしたが、ピーという音が鳴ってプラスチック板で通路を遮蔽されてしまった。こうしているうちに彼女は電車に乗ってしまうかもしれない。急いでプラスチック板をまたいでホームに出た。
 彼女が顔だけこちらを向けて僕を見ながら、車内に足を踏み入れていた。
 後を追って、電車に飛び乗ろうとしたら、目の前で扉が閉まった。扉の窓ガラスから見える彼女の後姿に向かって言った。
 また“アラヤ”でね。
 彼女は、完全に閉まった扉の窓ガラスに顔を近づけて僕を見た。
 ゆっくりと電車が動き始めた。彼女を乗せた車両がどんどん遠ざかっていく。彼女は扉の窓ガラスに寄りかかって、じっとこちらを見ていた。数歩駆けていくが、たちまち彼女の顔は小さくなっていく。淋しそうな二つの目のくぼみが、こちらを向いていた。
 たたずんで、彼女のいなくなった方を見た。暗いトンネルは遠くにいくほど闇になり、レールが消えていた。耳に残った電車の残響をずっと聞いていた。

 潮風がどこかからメタンガスの臭いを運んでくる。洋が防波堤に打ち上げられた小魚の死骸を見て言う。
 きったねえよな。
 細かな魚鱗の境に油が入り込み薄汚れている。
 なあ、こいつ背骨が曲がってるよ。
 見ると、小魚の死骸の背骨が屈曲している。
 ひでえな。
 堤防から見おろす海面は濃緑色をしているが、よく見ると一面がオイルで覆われている。水面下になるほど混濁した暗色に移行し底に何があるのかわからない。好奇心を起こし、ゴミ溜めから木の棒を取り出してきて海に突っ込んだ。木の棒に何かが触れる。棒をかき回し水面上に引き上げた。棒の先にはヘドロのこびりついた黒緑色の長い藻が絡んでいる。
 狂った海だ。
 と僕は言う。
 ああ。あんな魚みたいにはなりたくねえな。
 お前は大丈夫さ。俺には生き生きして見えるよ。
 カメラをいじっている時だけさ、あまりやりたくもない仕事をして生活の大半を過ごすなんて、どこか狂っているよ。
 そうなのか?
 まあな。
 洋はうなずく。
 こいつは俺だよ。
 そう言って小魚をつかんで海に向かって投げる。
 醜く歪んだ小魚の死骸が、石ころのようにくるくると回りながら海の中に落ちていく。 洋はにやにやして言う。
 この間、女を追いかけてたお前は、生き生きしてたぜ。
 動揺しながらも、照れてしまう。
 でも、あの女には用心した方がいいぜ。
 洋が真顔で言う。
 どうして?
 悪い噂があるし……。
 どんな?
 僕は彼の顔を見る。
 あいつら薬中でクスリや身体を売って生活してるって噂だよ。警察に何度も厄介になっているらしい。
 まさか。
 洋は両手を左右に開き肩をすぼめ、素知らぬ振りをする。人に噂はつきものだが、これは受け流せない噂だ。
 事実かどうかは君は知らないんだろ。
 まあな。
 ただの噂だよ。
 だといいけどな。
 視線を落とし、煙草を取り出そうと潰れた煙草の箱をつつく。煙草はない。洋は焦点の合わない瞳で海を眺めて、黙っている。煙草の箱を潰しながら呟く。
 綺麗な人だと思わないか?
 特に思わないけど……。
 こめかみを掻いて洋の横顔を見る。
 お前の勝手だが、気をつけろよな。
 目をしばたたいて、前方に目をやる。コンクリートのような曇空の下で、淡い灰色の海が静止していて動かない。平面的なコンテナ埠頭になっている湾が遠くまで弓状に続き、海に突出した先端には工場が密集している。遠方になるほど霞がかかっていてはっきりとしないが、機能している様子はない。貨物船はほとんど入港していないし、フォークリフトなどの荷役機械は動いていない。貨物輸送車なども見かけない。時折鉄筋の骨組みに鉄材を打ち付けるような金属音やブルドーザーか何かのエンジン音が遠くから聞こえてくるだけだ。それがどこから聞こえてくるのかわからない。

 自室のベッドの中で、下着姿のまま壁の方を向いて煙草の煙をくゆらせている。理依のつけている香水が何かは知らないが、息を吸い込むと気持ち悪くなる。いつかも、満員電車で厚化粧をした太った中年女性から漂う香水の匂いに、同じような吐き気を覚えたことがある。毛布の下で全裸のまま横たわっている理依が、隣から僕の胸を揺らす。
 ねえ、ねえったら。
 仕方なしに唸るような声を出す。
 さっきから何考えているの?
 別に。
 理依は黙って、僕の胸を撫でる。
 短くなった煙草を灰皿でもみ消し、両手を枕にして仰向けのまま物思いにひたる。
 ねえ、ねえ。
 理依は僕の身体を揺さぶる。
 ううん?
 何考えているの?
 いろんな事をだよ。
 どんなこと?
 理依に関係ないこと。
 卓の悩みは私の悩み。
 理依は裸のまま僕の体の上に重なる。
 どうして話さないの? 心ここにあらずって感じ。
 彼女は顔を上げて、机に置いてある原稿用紙や資料などに目をやる。
 卓は大学に来なくなってから変わったわ。
 黙って理依をよけて上体を起こす。横にある椅子に掛けてあったシャツを手に取る。理依は言う。
 そんな安っぽい派手なシャツ、前は着なかったもの。
 洋服にはこだわらないとはいえ、かちんとくる。安いタイダイシャツだが、気に入っていたから。
 また留年しちゃうわよ。
 ベッドを降りてジーンズに足を通す。床に落ちている彼女の下着を拾って手渡す。
 理依は下着を手に取るが、身につけない。
 大学に戻っておいでよ。卓がいないと大学に行ってもつまんないわ。
 俺がいたら面白いの?
 理依は一瞬黙る。
 僕たちは、大学では不真面目な学生として同種類の人間だった。試験資格を失わない最低限の日数まで欠席し、遅刻の常習犯で、講義室では常に最後方の席を陣取り、居眠りをするか読書をするかだった。理依はそれに女性雑誌が加わった。遠く前方では、教授が何やら黒板に書きつけ喋っているのだった。僕たちは大学の講義を、遠い場所からつまらない座興でも見るような目つきで、時折教壇を眺めてはぼんやりした。だが理依はこれまでのところ留年は免れている。先輩や友人などから、過去の試験問題や試験範囲をまとめたノートなどをコピーさせてもらい、試験前に要点だけを暗記し再試験には受かる。処世術と要領の良さで、医者への軌道から辛うじてはみ出さずにいる。
 卓ったらずっと大学に来ないから心配だったのよ。いつも留守番電話だし、部屋にはいないし。
 親に知られたくないんだ。うるさいからさ。仕事が忙しいせいもあるんだけど。
 どうしてそんなバイトするの? そんな仕事する必要ないじゃない。卒業して国家試験に受かったら医者になれるのに。
 目を伏せてジーンズのボタンを留める。
 今度留年すると大学から除籍されちゃうわよ。
 コームを手に取り、壁に取り付けてある全身鏡を見る。笑いのない顔。心の底から笑ったことなんてもう何年もないような、生まれてこのかた一度もないような気がする。これで良いのだろうかという思いが一瞬よぎる。
 医者になれなくなっちゃうわよ。
 コームを持って洗面所に行く。
 そんなバイトで食べていくつもり?
 理依は机の上の原稿用紙を顎で指しながら言う。
 鏡を見て髪をとかす。
 卓って何を考えているのかしら。
 水道のコックをひねり勢いのある水を流す。
 ねえ、何か言って。卓が迷っているのはわかってるわ。でも、卓は温室育ちだから、それに食傷して外の世界に憧れているだけなのよ。
 水を止め、黙って部屋に戻り上着を着た。
 毎朝車で迎えに来てあげるわ。だから一緒に学校へ行きましょ。
 いいよ。
 と首を振る。
 きっと卒業さえすれば後は楽になるわ。私のパパが言ってるもの。卓さえ良かったらうちの病院で働かないかって。
 よせよ、そんな話。
 彼女は口を閉じる。
 理依の父親と僕の父親が医科大学の同期生であった関係から、お互いの経営する病院や人脈について彼らは知っていた。それに、僕らの学校のガイダンスやパーティなどで彼らが頻繁に顔を合わせることもあって、僕と理依がつき合っていることも知っていた。
 彼女はゆっくりと服を着始める。身支度を終えてベッドに改まったように腰掛ける。理依が聞く。
 ねえ、私のこと好き?
 たぶん嫌いだと、抱けないと思うよ。
 嫌いではないというだけ?
 彼女の真剣な眼差しに圧されて、目を伏せる。
 どうしてそんなこと聞くんだよ。
 卓の気持ちを知りたいの。
 ……君はきれいだしお嬢さんだし大学でやるべき事はこなしている。いつも明るい顔をしていて親切だし、素晴らしいと思ってるよ。
 それで?
 理依は詰問口調で言う。
 どう答えてよいのかわからなくなる。
 私を好きかどうかって聞いているのよ。
 だから……どっちかと言えば……好きなんだと思うよ。
 ほんとう?
 机の上に置いてある理依の自動車の鍵を見る。
 どっちかと言えば……たぶん……。
 今度いつ会えるのかしら?
 また電話するよ。
 と目をしばたたいて言う。
 そんなこと言っていつも電話しないわ。今日だってやっとつかまえたんだもの。
 するよ、するよ。
 かならずよ。
 ああ。
 彼女はレインコートを着た。僕たちは部屋を出て、黙って薄暗い廊下を歩いた。暗く高い天井に、間隔をあけて小さな電灯が点っている。外は夕闇に包まれ、小雨が降り続いている。街は海底に沈んでいるように、ひっそりとうずくまっている。彼女のブランドものの大きな傘の下で、僕たちは駐車場に向かって黙って歩いた。ふと彼女が僕を見上げて聞いた。
 どうして私を抱くの?
 返答に窮して、顎をさすった。
 だから……だから言っただろ、好きかもしれないって。
 ほんとうに?
 わあかんねえよ、本当かどうかなんて。
 理依のしつこい質問に、ついいらいらした口調で言う。彼女は傷ついたかもれないと思い理依の顔を見るが、その様子は見られない。
 君はどうして僕を大学に行かせようとするんだい?
 好きだからよ。
 ほんとうに?
 ええ。
 理依は何の疑いもなさそうにうなずく。彼女は駐車してある赤いベンツに乗り込んだ。広場で車をUターンさせて僕の前で停めた。理依の顔が、雨に打たれるフロントガラスとワイパーで遮られよく見えない。彼女はドアウインドを開け、僕を覗き上げる。
 電話してね。
 ああ。
 ベンツが動き出した。赤い大きな自動車が暗く細い私道をゆっくりと走る。理依の後ろ姿が、雨に濡れた暗い後部ドアガラスから見える。自動車は幹線道路に行き当たり、理依は左右を確認した。交通が渋滞していて、自動車がテールランプを点灯して長い列を作っていた。理依は自動車と自動車の隙間に割り込み、ゆっくりと速度を上げる。
 追いかけて行って、車に向かって手を振った。なぜか、理依とはもう会わないような気がした。だがいつものように、理依はクラクションで応えてくれる。
 ベンツは、連動する自動車の列に組み込まれていく。交通の流れで、だんだんと遠くなっていく。連なる自動車の一部になり、見えなくなってしまう。

 今夜は“アラヤ”が開かれるはずだった。月に一度、月末に開かれる。夕方、会社での仕事が終わると急いでパソコン機材や原稿用紙を片づけ鞄に詰めた。洋が、夕食でも食べに行かないかと誘う。これから用があるんだ、と上着を着る。どこか行くのかと彼は問うたが、曖昧な返事をする。これから“アラヤ”に行こうとしていることを誰にも言いたくなかった。そこを教えてくれた彼にさえも。この日の“アラヤ”は、僕にとって重要な出会いの場所になるかもしれないからだ。
 早々と会社を出た。両側に立ち並ぶ高層ビルの間の夜空を見上げる。月も星も見あたらない。空はコールタールで塗られているような厚い闇だ。闇夜に埋もれたビルや道路のあちらこちらで、ネオンや電灯や電飾看板が煌めいている。歩く人々、さざめき、携帯電話の着信音、渋滞した自動車のライト、クラクション、嬌声、幾種類もの音楽、拡声器を使った呼び込み、パチンコ店の音、雑多な音が入り混じった喧噪の中を歩いていく。あの女性に会えるだろうか。
 急いで電車に乗り込みクラブのある沿岸に向かう。巨大倉庫が立ち並ぶ道路を歩いていると、重低音のリズムが聞こえてくる。クラブのある倉庫の入り口に“アラヤ”のポスターが貼ってある。
 弾む胸を抑えながら、地下階段を降りていった。トランステクノの振動する音が、身体に伝わってくる。重い鉄製の扉を開け、素早くフロア内を見渡す。彼女の姿は、ない。バーカウンターの方へ目を走らせるが、彼女は見あたらない。夜が深まるにつれ人は多くなるはずだが、まだ少ない。人がまばらに踊っている広く薄暗い空間に、つんざくような音が響いている。時計の針が今日と明日の境界をまわる頃、人々は急激に増える。彼女もその頃に来るかもしれない。そう思うと胸が高鳴る。
 スピーカーの裏の壁に沿って通っている大きなパイプに腰掛け、缶ビールを飲んだ。電子音が青白い空間をリズミカルに躍動し、飛び交っている。目を閉じた。
 白くきめの細かい小さな卵型の輪郭に、淋しげな黒い瞳が、瞼の裏に甦る。怯えているようではあるが、こちらを見透かしているような瞳。少女のように純粋で自信なげでもあったが、きっと悪い人ではない。
 彼女に触れたくなる。目を開くが、彼女はいない。フロアには、何人かの人間が踊っている。その中には、モデル体型の女もいる。だが、彼女たちに対して親近感や魅力や興味をさほど感じない。長身で派手な顔立ちの女が踊りながら、僕に微笑みかけてきた。彼女は僕の方を見てはいるが、ポスターか何かに微笑みかけているみたいだ。彼女の視線は僕の中へは入らず、皮膚を掠り通り過ぎてしまう。
 洋が、あの女はクスリや身体売ってるって噂さ、と言っていたのを思い出す。だがそれは、ただの噂にすぎないと首を振る。
 子供の頃クラスメートと遊ぶ時、洋はいつもリーダーシップをとっていた。僕はその逆で仲間外れになりやすかったが、洋は僕に対しては対等でむしろ他の仲間とは違う存在として接していた。彼の僕に対する態度は、僕をただの気弱な坊ちゃんとしてバカにしがちだった他の連中のそれとは異なっていた。彼の僕への見方は、僕に自信を与えた。いつか、神社にある樹齢何百年かの大樹に仲間と競争して登ったことがある。洋が言い出して先頭を登り始め、みんなが従うようによじ登っていった。僕だけ登ることができずに根元から上の方にいる仲間を見上げていた。何度も樹木をよじ登ろうとした。ついに、突出していた木肌で膝からふくら脛にかけてかすり傷を被い、登ることを諦めた。樹木のずっと上の方から、洋は樹木から離れていく僕を見つめていた。洋の下方でよじ登ったり枝に腰掛かけ休息している連中は、僕を見下ろしながら怪獣のあだ名をつけてからかい、笑い飛ばしていた。足の怪我を気にしながら、黙って立ち去ろうとした。みんなの笑い声や話し声を後に神社を離れていった。神社の裏の井戸から水を汲み上げて、足の傷を洗った。洋がやって来て、僕の様子を見ていた。洋を無視して、足を洗っていると彼は言った。これからみんなでゲームセンターにでも行かないか? 彼は僕がテレビゲームを好きなのを知っていた。僕は黙って足を洗い続けていた。
 空気を振動させるリズムに、ビブラートのかかった高音の電子音が流れ星のように出現しては消えていく。何本ものパイプやコードがはりめぐらされている高いコンクリートの天井を、時折レーザー光線が射る。その光線を頼りに、踊る人々や、隅に座ったり壁に寄りかかっている人々を注意深く見る。入り口の鉄の扉が開くたびに、僕の視線はそちらに素早く走る。
 時計の針は今日と明日の境界をとうに過ぎている。人は増えたが、彼女の現れる気配はない。煙草をくわえ火をつける。意識はますます冴える一方だ。まだ長い煙草を押しつぶし、バーカウンターに行く。人々で混雑しているが、彼女の姿はない。何本目かのビール缶を求め、再びスピーカーの裏のパイプに腰掛けてプルトップを引き抜く。あまり飲みたくはないが、喉の奥に流し込む。煙草に火をつけ、深く吸い込む。煙草の火を灰皿の中で押し消す。ビールを喉の中に流し込む。
 暗い空間の中で、大勢の人間たちが踊っている。踊る気になれずに、壁に頭をつけてぼんやりした。音楽を聴いていると、索漠とした将来や大学の事を忘れていられる。
 時計の針は日々の境をとうに越えている。街は最も深い闇に沈んでいて電車は走っていないはずだ。彼女は来ないかもしれない。
 煙草をくわえ火をつける。ゆっくりと煙を吐き出す。煙草は短くないが、もみ消す。また煙草を取り出して火をつける。絶え間なく煙草を吸う。
 もう二度と会うことはないかもしれない。また何本目かのビール缶をバーカウンターで得た。心髄に響きわたる無機的で強烈な電子音は、すぐに体外へ抜けていく。人の顔を少しも見逃すことのない注意深さをもって、すばやく視線を全空間に走らせた。薄暗い闇だ。
 スピーカーの裏のパイプに座る。音とリズムが鼓膜と胸を打つ。自然に上体がリズムで揺れるが、踊る気にはなれない。
 フロアで踊る人々の渦を見ていると、薄暗い巨大な箱の底に一人で座り込んでいる錯覚を覚える。
 時計の針は、もう夜が明けることを示している。朝が来ると、“アラヤ”は閉じられる。もう飲みたくもない残り少なくなったビールを喉に流し込んだ。この祭儀的空間とアルコールが身体に入り込んでいるのにもかかわらず、意識は時間とともに研ぎ澄まされていく。 空気が重い。闇が背後に垂れてきて、身体の温度を引き下げていく。ぼんやりと前方を見た。暗がりの中で、大勢の人間たちがうごめくように踊っている。闇にとらわれ浮上できないで、膝の上に組んだ両手の甲に顎を乗せたまま、ぼんやりとする。
 最後の音楽が鳴り始めた。拡大した暗闇が背後で生気を吸収し、身体を冷却させていく。ドライアイスの靄が、人々が踊る空間に立ちこめてくる。自由自在に躍動する人間たちの姿が靄の中に消える。レーザー光線が稲妻のように走る。踊る人間たちのシルエットが浮かび上がる。
 大勢の踊る人間たちの背後に、どこかで見たことのあるブルーのボブヘアの女を見つけた。この前の“アラヤ”の出口の階段で彼女と話をしていた女だと思い出した。黒いタンクトップに極彩色のベルボトムを身に着けていて、両手を高く上げてリズミカルに手の平を半回転させている。両足を交互に地面に打ちつける調子で、全身の骨がテクノの重低音に共振するかのように踊っている。だが力強い身体の動きにもかかわらず、表情はだらしない。顔の筋肉は弛緩し、黒目が上を向きどんよりとしている。激しい身体の動きに反して、死んだ魚のような目をしている。踊りに陶酔している瞳とはどこか違う。洋が言っていたように、彼女たちはクスリの中毒者なのだろうか。
 最後の音楽が鳴り終わり、ピンクがかった照明がフロアを包み始めた。優しく甘いメロディが流れる。人々は踊りをやめて、ちりぢりになった。壁にもたれかかったりパイプやコンテナに座ったり、仲間と群れたりぼんやりとたたずんだり、余韻を残した空間に浸っている。ブルーのボブヘアの女は壁にもたれかかり、プラスチックコップに入った赤い液体を飲みながら、上目遣いでぼんやりとしている。女に近づき、訊ねてみた。
 長い髪をした、黒い服を着た女の子は来てないの?
 ぼんやりとした目が僕に向く。
 誰それ?
 こないだ来てた……。
 ああユウコ。どうして探しているの?
 会いたいんだ。
 どうして?
 女は上目遣いで僕を訝しげに見た。
 どうしてかわからないけど、もう一度会いたいのさ。
 女は言った。
 仕事で忙しいから、きょうは来てないよ。
 仕事? 彼女何やってるの?
 あんた誰?
 卓、卓っていうんだ。
 ふうん。
 女はすばやく僕の足元から頭まで目を走らせる。
 で、ユウコは何やってるの?
 よく知らない。
 女は前髪の奥から僕を見て、背中を向け立ち去っていく。女は向こうにいる一組の男女と合流した。男は黒い奇抜なカットの入ったスーツを着ていて、縁の長いハットを被っている。女の方は銀色のパンツに黒い革のベスト、トルコ石の首飾りをじゃらじゃらとつけている。ブルーのボブヘアの女が僕をちらりと見て、男に話しかける。男も僕をちらりと見る。
 飲み残しのビールを飲み干した。ライトに照らされて、フライヤーやプラスチックコップが散らかった床や、切断されて金属がはみ出た沢山のコード、破折したパイプ、落書きされたコンクリート壁など、廃れた倉庫内が露わになっている。
 踊りの空間から出て、入り組んだ鉄製の階段や廊下を歩き、コンテナの積んである小部屋を横切り、重い鉄扉を開け、螺旋階段を登り、出口を探す。

 外は厚い霧に覆われていた。踊ってもいないのに疲労して、濡れた道路を歩いた。人通りはなく、時折電車の通る音が地下から響いてくる。この時、黒い服を着た女の後ろ姿を見たような気がした。目を凝らして霧の奥を見た。長い髪の長い黒衣を着た女が前方に歩いている。目を擦りながら、早く歩いた。
 彼女の後ろ姿がふいに、霧の奥に消えた。
 走っていき、辺りを見回す。濃い霧が立ちこめていて、遠くが見えない。刺すような冷たい湿った空気が肌にまとわりつく。どの建物もがらんどうで、路地には人も自動車もない。遠くの方で、信号機の黄が赤に変わるのが霧に滲んで見える。
 ビルが連なっている歩道をぼんやりと歩く。女の後ろ姿は目の迷いだったのだろうか。時たまタクシーが通り過ぎる音がする。頬や腕が霧で湿っぽくなっていく。ビルとビルの隙間の細い路地に、また黒衣を着た女の後ろ姿を見つけた。
 急いで細い路地に入っていく。霧の奥に、彼女の黒いシルエットが見える。駆けていくと、再び彼女の姿が霧の向こうに見えなくなった。
 慌てて駆けつけ、辺りを見回す。誰もいない。閑散としたビルが周りを囲み霧の中にひっそりとたたずんでいる。
 この一帯は、地上げをされて利用されることのないゴーストタウンとなっている。もう長い間手入れされておらず、ビルは古びていて壁面のタイルは所々剥げ落ち、コンクリート壁は変色しひびがあちらこちらに入っている。窓が縦横に並列していて、沢山の闇がぽっかりと口を開けている。窓ガラスは割れ、壁に掛かっている電飾看板も壊れて地面に落ちている。使い物にならない古びた自動販売機が壁面に傾いている。こうしたビルばかりが密集する、塵埃の溜まった細く薄暗い道を進んでいく。
 朽ちたビルが、僕を取り囲み立ちはだかっている。彼女はどこにいるんだろう。十字路に行き当たり左右前後を見回す。空洞化したビルの連なりが、ぼんやりとした輪郭を残しながら、鏡の中の鏡のようにどの方向にも白々とした霧の奥まで続く。
 ビルの上方の割れた窓に、女性の黒いシルエットが見えた。こちらを見ているようだ。だがすぐに壁の向こうに消えてしまう。
 そのビルの中に駆け込んだ。階段を登る僕の足音が、広い館内で響く。色褪せて破れたポスターやガラスの破片が散らばっている廊下を走る。割れたショウウインドウや壊れた扉からそれぞれの部屋に入り込んでいく。誰もいない。また階段を二段飛ばしに走っていく。それを何度も繰り返した。
 階段を登り最上階の長い廊下に出た。館内は薄暗くとても静かだ。行き止まりのガラスの入っていない窓から、外の漠とした明かりと靄が入っている。
 一つ一つの部屋を調べてみる。どの部屋にも扉がなく、がらんとしていて塵が火山灰のように積もっている。書類や新聞などの紙片が散乱し、枯れた植木の鉢や段ボール箱などが転がっている。僕の足音だけが大きく響く。こうして部屋の中を捜している隙に、彼女はこのビルを出ていってしまったのだろうか。しかしこの深海の底のような静けさの中で、彼女が行動するとしたら足音が聞こえるはずだ。彼女はどこにいるんだ? 先ほど彼女がビルの窓から僕を見ていたと思ったのは、目の迷いだったのだろうか?
 扉のない最後の部屋に勢いよく入った。大きな部屋に、汚れたスチールデスクが置いてあるだけで、何もなく誰もいない。正面には亀裂の入った大きな窓ガラスがある。
 真ん中に、力をなくしてぼんやりとたたずんだ。
 汚れで曇った、亀裂のある窓ガラスを通して外を見た。厚い雲が陰鬱に垂れ下がっていて、街を覆う薄白い霧との境界は定かではない。廃屋となったビル群が霧の奥に沈み、灰色の影だけをうっすらと残している。
 冷ややかな湿った外気が入り口から入ってくる。背後にかすかな物音がした。振り向くと人影があった。
 彼女が、壁に傾いている壊れた扉の後ろの地面にうずくまっていた。黒い瞳は観察するように僕をじっと見ている。唾を飲んで声をかけた。
 やあ。
 彼女はおずおずとした目で僕を見た。
 どうして私を追ってきたの?
 素敵な女性だったから。どんな人かなと思って。
 本当に?
 ああ。
 信じられないわ。
 どうして?
 何か魂胆があるんじゃない。
 別にないよ。お近づきになりたかっただけさ。
 どうして?
 一瞬どう言えばよいのかわからなくなった。
 どうしてって……関心がわいたからだよ。
 ありがとう。でもあなたと寝ないわよ。
 彼女は顔色を変えずにきっぱりと言った。その口調にかちんときた。
 寝ようなんて言ってないじゃないか。
 彼女は立ち上がって洋服についた埃を払い、僕がどんな人物かを窺うように見上げた。
 この間、私を追ってきたでしょう。 
 ああ。話をしたかったんだ。君が急いで帰っちゃったから。
 駅のホームで離ればなれになっちゃったのね。
 ああ。
 彼女は僕を見つめていた。
 名前は何て言うの?
 渡部卓っていうんだ。
 賢そうな名ね。私は水野沙夜。クラブで知り合った人に本名を言うのは初めてよ。
 なぜ、他の人に本名を言わないのかわからなかったが、彼女が僕に正直であることはとても嬉しかった。沙夜は言った。
 あなたみたいな人、“アラヤ”で初めて見たわ。
 みたいって、どんな?
 真面目そう。
 苦笑して言う。
 ぜんぜん真面目じゃないよ。
 知的な仕事をしている人なんでしょう。自分の意見を持って物事を洞察するようなお仕事……物書きじゃない?
 目をしばたたいて、こめかみを掻く。
 俺……アルバイトで、書いてはいるけど……。
 物書きの卵なのね。
 何て言うか……その……困ったな。
 自分の立場をどう言えばいいのか苦しむが、どこかくすぐられた。
 まあね、そうでありたいよ。
 そういう仕事ってかっこいいよね。
 沙夜は目を大きく開いて僕を見つめた。照れてしまって顎を掻く。長く黒い睫に縁どられた瞳は澄んでいて子供のようだ。唇の色は紅色だが口紅の色かどうかわからない。肌はほとんど素肌に近く、きめ細かく色白だった。
 身体に張りつくような踝まである黒衣をまとっていて、胴部はくびれている。腕には銀製の彫刻のある腕輪がはめてあった。髪は腰まである直毛で、黒い布でバンダナ風に頭を巻いている。
 豊かな胸の中央に、何連かの四肢骨や銀の首飾りに混じって、瞳を連想させる大きな円錐形のペンダントが垂れていた。中央は盛り上がり、白濁した石の内部に黒い瞳孔を模した小石が入っている。周囲に小粒の珊瑚やトルコ石などが渦模様に埋め込まれていて、既製品ではないようだ。
 珍しいペンダントだね。
 彼女に近づいてペンダントをよく見た。沙夜は微笑すた。
 私が作ったの。中東の方の魔除を模して。
 へえ。
 ペンダントに触れて、裏を返して見た。連珠円文様の内部に、ネコ科の動物を思わせる幻獣が繊細に彫刻されている。
 大したもんだな。
 ワックスに彫刻してセメントで埋没して鋳造したのよ。それから宝石をはめ込んだの。
 へえ、機材とか、自分で持ってるの?
 ……前は持ってたけど…今はないの。
 沙夜は視線を落として口ごもった。ペンダントをよく見ると、裏側が蓋のようになっている。
 彼氏の写真でも入っているのかな。
 彼女は笑って言う。
 彼氏はいないわ。これは私のおじさん。
 彼女は嬉しそうにペンダントの裏の蓋を開けて、小さな顔写真を見せた。そこには白衣を着た柔和な中年の男が写っている。
 ずっとおじさんの所にいたの。おじさんの所には鋳造機や研磨器具や塗料やいろんなものが置いてあったわ。
 おじさんもアクセサリーを作ってたの?
 おじさんは技工士をやってたの。私のためにいろんなものを揃えてくれたのよ。ジュエリーの学校にも行かせてくれた。途中で辞めたけど。
 どうして?
 おじさんが亡くなったの。授業料も払えなかったし……。
 ご両親は?
 いないわ。
 沙夜の顔に陰が走る。立ちいったことを聞く気はなかったから、口を閉じた。
 彼女は歩いて僕を通り過ぎ、スチールデスクの向こうへ回り窓際へ行った。
 窓ガラスには蜘蛛の巣のような亀裂が入り、埃にまみれて半透明だ。それを通して、いくつもの荒れはてたビル群が、霧の奥にそびえているのがぼんやりと見える。彼女は窓の外を見ながら聞く。
 今日“アラヤ”にずっといたの?
 うん。君が来るかもしれないと思って。
 わたしの友達いた?
 髪をブルーに染めた子?
 そう、そうよ。
 彼女はこちらを向いてうなずく。
 いたよ。彼女に尋ねたんだ、君のこと。
 えっ、なんて?
 また彼女の顔に陰が走る。洋に聞いた悪い噂を思い出して、かまをかけてみようとした。
 いろいろとね。
 と意味ありげな笑いを浮かべた。沙夜は真顔になった。
 彼女はなんて言ったの?
 沙夜が真剣な顔をしたので、かまをかけるのはやめた。
 よく知らないって。
 ふうん。
 彼女は黙って窓際の方を向いた。ビルとビルとの底に沈滞している濃い霧の方を見ている。どんよりとした空気が動いて、開いた扉からかすかな霧が入ってくる。彼女は言った。
 ねえ、この間の“アラヤ”の音良かったね。
 あ、ああ、僕初めてでよくわかんないけど。でもいい音楽さ。
 沙夜は地面に転がっているダンボール箱や空のオイル缶やプラスチックコンテナなどをスチールデスクの下に集めてきた。倒れて横たわっている枯れた鉢植えの枝も折って持ってくる。
 私も音を創るのうまいのよ。
 沙夜は二本の枝を両手に持ち、段ボール箱とプラスチックコンテナを叩き始めた。静寂が破裂し、音がビル内に反響する。手慣れていて、オイル缶やスチールデスクの脚なども、素速いテンポで次々とドラムの一部にして打った。地面にあぐらをかいて尋ねた。
 ドラムできるの?
 少しね。
 沙夜はスチールデスクの脚に枝を小刻みにリバウンドさせ、オイル缶の中腹でシンバル・ショットを加えた。同時にプラスチックコンテナを変則的な八分音符のビートで打ち鳴らす。やがてスピードが増し、両手の枝は自由自在にがらくたの間を行き来した。雑多な音のリズミカルなオンパレードがビル内に響きわたる。
 激しくがらくたを打ち続ける木の枝を眺める。それは沙夜の細く白い指に挟まれて、連続的に弾みながら動いている。か弱い手指にもかかわらず、力強い音を出せるのに感心してしまう。鼓膜の奥に、様々な電子音が一斉に空間を打ち鳴らす音が甦る。リズムは、身体の奥深いところを刺激する。ダンボール箱はバス・ドラムになりオイル缶はシンバルになって、音の振幅を生み出す。ダンボール箱とプラスチックコンテナの連続的なタップ音は、主音律となって僕の腹底部を振動させる。何重にも包まれていた薄布がリズムの振動で落とされ、裸体が剥きだしになっていくようだ。
 スチールデスクの脚を短縮的に打つ音が、規則的に波形に付着しては消える。オイル缶の中腹で震える響きが生じたかと思うと、缶の縁で緊張した金属音が跳ね上がる。連続的に鳴る段ボール箱とプラスチックコンテナのリズミカルな鈍い低音が、腹部を開いていき、鋭い金属音の甲高い響きが骨に達するようだ。沙夜の両手は、小刻みに規則的な動きをしながら、素早くそれぞれのがらくたを行き来する。
 近くに転がっていたコンクリートの破片と鉢を手に持って、擦ってみる。ざらっとした土の音がする。リズムに合わせて擦り合わせてみる。
 沙夜が僕を見ていた。
 ダンボールや金属やプラスチックの音が交錯するリズムに、土の音を入れた。鈍くきめの粗い音が、十六分音符のビートの間に勢いよく入る。ゆっくりとした規則的な間隔をおいて、小刻みな摩擦音とぼくとつな音色でリズムを創る。沙夜の創り出すリズムの中へとけ込んでいく。
 沙夜は両手をリズミカルに動かしながら、笑みを浮かべて僕の手元を眺めている。
 様々な音がいっせいにリズムとなって躍動し、淀んだ空気を震わせ、廃屋となったビル内に木霊する。
 沙夜の顔がだんだん紅潮し始め、歯をくいしばって一生懸命といった表情で叩くので、可笑しくなってしまう。彼女が休止符の代わりに僕の頭をポンと叩いた。僕は笑った。彼女は夢中になってプラスチックコンテナを両手で限りなく小刻みに打ち、紅潮した顔の真ん中にくしゃりと集束するような皺を寄せる。また可笑しくなってしまう。沙夜は苦し紛れの顔をしながら笑い、僕の頭をポンと叩く。
 二人の笑い声と雑多なものを叩く音が、ただっ広い朽ちたビル内に鳴り響いた。
 窓の外は明るさが増してきたが、厚い雲と霧のせいで太陽の光は地上までなかなか達さない。あいかわらず不透明な白い空気に包まれていて、僕たちの創り出す音は霧の中に拡散していき消えてしまう。どんなに僕たちが騒ごうと、音は細かな水の粒子の集合体に吸収され隣りのビルまで届かない。
 周囲には廃れたビルが数多く立ち並んでいるというのに、ここから見えるのは真向かいのビルのぼんやりとした全貌と、その周りに続く張りぼてのような建物の輪郭と影だけだ。 僕たちは遊びに疲れて、部屋の隅に散らかっているダンボール紙や新聞紙を寄せ集めて、その上に転がった。
 呼吸を整え手足を伸ばし目を閉じた。遠くから電車の走る音が小さく聞こえる。時折自動車が通り過ぎる音がかすかにする。
 隣りで仰向けになっている沙夜の横顔を見た。眼を閉じていて、口元が微笑している。こめかみが汗で濡れている。首すじや胸元がてかてかしていて、汗の混じった白檀の香りがした。彼女はじっとしていて動かない。触りたくなったが、あなたと寝ないわよ、という言葉を思い出して、目を閉じて身体の力を抜いた。瞼が重く重力がかかっていくように身体が地面に沈み込んでいく。意識は底なしの深淵に落ちていく。闇へ闇へと滑り落ちていき、何も聞こえなくなってしまった。
 気がつくと、がらんとした埃まみれのコンクリートの床の上に一人で横たわっていた。身体の上には何枚かの古新聞がかけてある。起き上がって、沙夜を捜す。誰もいない。廊下に出て辺りを見回すが、落書きされた壁、壊れた扉、割れたガラス窓、埃を被った雑多なごみが散らかっていて、扉のない部屋の入り口があるだけだ。外界の灰白色の鈍い明るさが、廊下のガラスの入っていない窓を通して、暗いビル内を朧気に照らしている。埃の積もった段ボール紙やガラス片が散らかっている長い廊下が、遠くの暗い踊り場まで寂寞として続いている。
 もとの部屋に戻り、スチールデスクの端に腰を降ろし溜め息をついた。煙草を取り出し火をつける。蜘蛛の巣のような亀裂の入った窓ガラスから外を見る。あいかわらず不透明な白い空気に包まれていて、明るさは増しているが太陽の光は厚い雲と霧に遮られている。 都市の騒音は霧の中に拡散してしまい、遠くにある砂礫の擦れ合いのように聞こえる。見渡すと後方に重なっている建物の輪郭と影が見える。クレーン付きで放られている、建設中止になった高層ビルの影が見える。このゴーストタウンの空間は、細かな無数の水の粒子が沈積しているせいで、全てが朧気だ。ビルの全貌が見えるのは真向かいのものだけで、壁面にはくり貫かれた洞穴のようなガラスのない窓が、規則正しく並んでいる。どこからか、ガラス片が落ちて割れる音が反響する。窓枠から身を乗り出し、耳を傾け音の方向に目を凝らす。白濁した大気の中に、空洞化したビル群がうっすらと透けて見える。動くものはなく、静寂そのものだ。
 舌打ちをして、煙草を床に投げ落とし、足で踏み潰す。埃だらけの潰れたコーラ缶が、淀んだ空気の底でわずかに転がる。ふと、床に書かれた紅い文字が目に入る。そこだけ埃が払われていて、紅いルージュで書き付けてある。
 もう帰らねばなりません。また“アラヤ”で会いましょう。
 ふっと口元が緩んだ。部屋の中を行ったり来たりして、うなずく。背筋を伸ばし、窓の外を見る。相変わらず外界は、靄と雲の境が定かでない灰白色の大気で覆われている。ビルの最上階で放られたクレーンの上空に、ぼうっとかすむ円形の光がある。太陽なのだ。安心して、深い息をつく。また今日から、仕事だ。腕時計を見る。まだ時間はある。あまり寝ていないのに、意識ははっきりしている。近いうちに“アラヤ”で沙夜と会えるだろう。服や髪についている埃を払う。出社すべく、早足に部屋を出て階段を降りていく。早めにオフィスに行って、コーヒーでも飲んだ後、書きかけの原稿を仕上げるつもりだ。産業廃棄物による環境汚染という主題だが、書いても書いてもどこか書き足りない。だが、この仕事を嫌いではない。
 珍しくさわやかな気持ちでビルを出ていく。明るさが増してきた大気に、沈黙するゴーストタウンがぼかし絵のように浮き出ている。

                                            

つづく  

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2001年9月20日設置