ルナティックの落書き

                                            松直伽

 暗がりの中で、沢山の人間が狂ったように踊っている。極彩色のシャツやベルボトムを着ている人々やインディア製の服を着ているヒッピー風の人々が、思い思いに躍動している。空間を打ち鳴らす電子音の波動は、身体をほぐして踊らせる。規則的な重低音のリズムは、腹部を振動させ、金属的な高音は意識を宙に浮かせる。フラッシュする光は、意識を溶かして拡散させる。
 奈子は肩でリズムを取りながら、壁際に並べてある木製のブロックに座って、踊る群衆の渦を見つめていた。踊る群れの中で、駆けるようなステップで移動しながら風を切るように身体を動かしている、華奢な男性が目に入った。首には赤いネックレスをしていて、ルーズに着こなしたシャツは、身体の動きで大きく揺らいでいる。色白で痩せているが、鼻梁は高く口元は引き締まり、意志の強そうな顔つきをしていた。彼は敏捷な動きで移動しながら、両腕を鋭角的に動かし空間を自由自在に使いこなしていく。彼の踊りは個性的で面白いと奈子は思う。やがて彼は、踊る大勢の輪の奥に消えてしまう。
 栞がバーカウンターから飲み物の入った二つのプラスチックコップを持ってくる。一つを奈子に手渡す。この日の栞は、いつもよりお洒落に身を着飾っていた。腕にはメヘンディで紋様を描き、オーガンジーのシャツに銀製の編みベスト、黒の巻きパンツを着けている。紅い小石を連ねたピアスとネックレスをして、髪を頭頂部に結い上げ、動物の骨のかんざしをしている。これら全てが、彼女の浅黒い艶のある肌と目が大きくふっくらとした顔立ちを、いっそう魅惑的に引き立たせていた。
「随分とお洒落じゃない」と奈子が言う。
「そりゃそうよ。今日はバレンタインデーだもの。チョコレートを持ってきたの」
 栞は言って、刺繍のしてある布製のポシェットから綺麗な小箱を見せる。
「いいわね。そういう人がいて」
「そうね。都司さんに出会えてとても幸運だわ」
「さっき栞のこと見てたわよ」
「知ってる。彼、私のこと意識してるの」
「うまくいくといいわね」
「本当。でもね、さっきから“彼女”が私をちらちら見てるの」
「ライバル視してるのよ」 
「“彼女”から都司さんを奪うつもりはないのに。ただ気持ちを彼に伝えたいだけ」
「わかってるわ。きっと“彼女”は不安なのよ。でもそれは“彼女”と都司さんの問題よ。栞と彼との関係は別にあるはずよ」
「そうよね」
 DJがチェンジして、都司がブースに入る。
「都司さんが回すわ。奈子踊りましょうよ」
 栞は水を得た魚のようにはしゃいで、飲みかけのプラスチックコップを小さな丸テーブルの上に放置したまま、フロアに入っていく。奈子も栞を追うようにして、フロアに入っていく。

 栞は、都司の流す音楽には乗ることができる。他のDJではうまく乗れない。都司は踊る人間の身体のリズムを熟知しているらしく、踊る側の身体のエネルギーを先取りして、それに合ったリズムの音楽を選曲していく。新人のDJに比べて、DJ歴の長い都司が音楽を流すと、人々はつっかえたり余計な疲労を感じることなく、自然に音とリズムの波動に身を委ねることができた。栞は、都司の流す音楽であれば、休むことなく朝まで踊ることができる。身体のエネルギーと音楽の波動が自然と溶け合っているので、踊りをやめることの方が疲れを伴う。
 栞は踊る人間の群れの中央で、両手を上げて宙を描くように左右に動かし、両足で交互に地面を踏みつける。幾層もの重低音が規則的に倉庫内を打ち続け、その上を鋭利なタップ音が軽快に走る。電気振動で、空間全体が揺らいでいる。波動は、栞の血液を巡り沸騰させる。繊細に折り曲げた指をリズムに踊らせながら、都司を見る。都司はヘッドホンに手をやり、肩でリズムをとりながら栞を見ている。 
 何年も前から、都司の流す音楽空間に馴れ親しんできた。都司と言葉を交わすことはなかったが、栞は彼だけを見つめてきた。栞の気持ちに応えるかのように、都司は時折栞を見つめた。
 都司と視線を交わす空間を、“彼女”が遮って割り込んでくる。都司の“彼女”は革のベストとベルボトムを着こなしていて、両腕を上げ身体を回転させながら踊っている。都司の姿が“彼女”に隠れて見えなくなる。“彼女”は交互に動かす両腕の隙間から、栞をちらりと見る。栞は不機嫌になった。
 栞は踊りながら位置を移動して、都司との空間を確保した。“彼女”も踊りながらやって来て、再び都司との空間を遮る。“彼女”が自分を見ている。栞は踊りを中断し、歩いて都司の全体の姿が見渡せる位置に移動した。そこで栞は踊り始める。都司と視線を交わすことはなくなったが、常にお互いの姿を認め合える場所にいることが、栞にとっては大事だった。再び“彼女”も移動してきて、今度はブースにいる都司の前で踊り始める。都司の姿は“彼女”の背後に隠れてしまい、栞からは見えなくなる。“彼女”と目が合う。栞は横を向いた。

 真津樹は、そろそろトウキョウに飽きてきた。数年前、ロンドンの美術学校に留学し帰国してからはトウキョウ郊外の高校で非常勤の美術教師をしていたが、彼のやりたいことはそんなことではなかった。常に自分の能力を十分に発揮していないと感じていた。美術教師で一生を終えるのは嫌だった。今年中には美術教師を辞めて再びロンドンに渡り創作活動をしたい。そこを拠点にずっと画家として食べていきたい。同じ高校の英語教師である凛子という恋人はいるが、まだ美術教師を辞めることを言っていない。週に一度は食事とセックスをする関係だったが、生涯付き添える女性かどうかというと躊躇する部分があった。凛子は真津樹の部屋を訪れるたびにテレピン臭いと言い部屋中に重ねて置いてあるカンバスを不快げに眺めるのが常だった。
 高校教師を辞めてからも、凛子との関係は続くのか。彼には自信がなかった。凛子と別れてしまうのは淋しい。だが絵の勉強のためにはそろそろ美術教師を辞めて、将来の準備をしたかった。ロンドンに拠点を置きたいのは、ニホンへの不満と批判的な考えもあるからだ。
 真津樹は踊りながら毒づいた。みんな同じようなファッションして同じような踊りをしやがって…しかもみんな元気がないぜ。
 彼は一人の女性に目がいった。ニホン人だが、独特な踊りをしていてエネルギッシュだった。ファッションも個性的で興味を引いた。目立たない顔立ちだが、切れ長の瞳や肌が白いところなど彼の好みに合う。真津樹は踊りながらその女性に近づいていった。

 奈子は、踊る人々の群れと飛び交う電子音の波動の中で、両腕の伸縮を繰り返しながら左右前後に跳躍していた。繰り返される無機的なリズム音に一体化して、両足を交互に動かして小刻みに跳ねるようなステップをする。髪にはターバンを巻いて、腕にはアームレットをつけブレスレットを何重にもしていた。躍動するたびに、何連もの石や銀製のネックレスが揺れる。タンクトップは汗でびっしょりとしていた。
 随分前に栞に“ルナティック”に連れられて来て以来、踊りの魅力に取りつかれてしまった。好き勝手に踊れるリズミカルな空間の中で、身体を自由に動かすと、既成の常識や規則などの拘束が削ぎ落とされ、無邪気で純真な子供の心が甦ってくる。彼女は、両手を上げて空気をバッシングするような動きをする。ふと、先ほど見かけた華奢な男性が近くで踊っていることに気づく。彼はさらに近寄り、奈子の隣で踊る。高音の電子音が弓のようにうねっては消える。リズムはますます激しくなる。その男性に、受け入れられているような気がする。奈子は彼を見るが、彼は宙を見つめて両手を上げて動かしている。重低音に乗って、太鼓の小刻みな音が駆け抜ける。
 奈子は高く上げた両手を交互に引き降ろすような動作をする。彼も同じような動作をした。彼女は両足を交互に踏みつける。彼も同じようなステップをする。
 奈子の踊りを彼が真似ているのを目尻で感じる。彼女は彼の顔を見るが、相変わらず前方の宙を見つめて踊っている。だが、奈子が両肘を曲げ脇腹にタップすると、彼も同じことをする。彼を時々気にしながら、しばらく踊った。
 踊りに疲れてフロアの隅の小さな丸テーブルのところに行く。プラスチックコップに入ったジンを飲みながら、人々が熱狂して踊る姿を見る。栞がいつもとは違う位置で踊っている。目も唇も真っ直ぐにして、踊りながら別なことを深刻に考えている風だ。都司は忙しなくレコードをチェンジしたり音の調節をしている。ブースの前で、“彼女”が両手を上げてリズムを取りながら踊っている。“彼女”はちらちらと栞を見ている。
 奈子は栞に手を上げて合図をしてみるが、彼女は気づかない。ふと、あの男性がいつの間にか斜め後方に立っていて、自分の方を見ているのに気づく。奈子は目をしばたたいて踊りの群れに目をやる。栞は不機嫌そうな顔をしている。時折フラッシュする闇の中で、人々が蠢くように躍動している。
 奈子は前方を向いたまま、斜め後方を盗み見る。彼はずっと自分の方を見ているようだ。目を上げると、じっくりと自分を見ている視線にぶつかる。急に顔が熱くなり、下を向く。緊張して、前方で踊っている人々を眺めるふりをする。もう一度目を伏せるようにして彼を盗み見る。とこの時、彼が進み出てきて、手を出して握手を求めてきた。戸惑っていると、彼は奈子の手を取って言った。
「こんにちは。僕の名は真津樹。少し話しをしませんか」
 彼の態度には不自然さはなかった。奈子は手をそのままにして黙っていると彼は言った。
「ね、いいでしょう」
 彼女はうなずくと、真津樹は歩き始めた。奈子は真津樹の後ろ姿を観察ながら付いていった。ぶかぶかのシャツが、彼の細身を一層強調している。ダンスフロアを出てロッカーの並ぶ階段に行く。人通りが少なく、音楽も厚い壁に吸収されたのかくぐもって聞こえる。高い天井では、汚れた蛍光灯が点滅していた。壁一面はスプレーやマジックなどで落書きされている。様々な絵や文字などが乱雑に描かれている。

 真津樹は奈子と向き合った。彼の前髪は汗で濡れている。彼女は汗で化粧が落ちていた。踊っている彼女は無邪気で幼く見えたが、長身で堂々と自分を直視しているのを見ると、自分と同じ年か年上に思える。その瞳は理知的だ。
「僕、絵を描いてるんだよ。君は?」
「イラスト描いている」
「ほんとう、似てるね。良かったら、今度食事でもしませんか」
「いいけど……」
「もうすぐロンドンに行くんだ」
「すごおい」
「すごいでしょ」
 真津樹は笑って何度もうなずく。フライヤーに自分の電話番号を書いて彼女に渡した。
「あさっての正午はどうですか」
「たぶんいいと思うけど……」
「このクラブの前で待ってるよ。何かあったら電話してね」
 彼は念を押す。
「明日は仕事だから、僕はこれから最終電車で帰るんだ。あさって待ってるね」
 彼は時計を見た。
「じゃあ、あさってね」
 こう言って真津樹は奈子の手を取り、別れの挨拶をした。彼は出口を目指して、階段を駆け上がっていった。ルナティックから出て、路上を走っていく。最終電車に間に合うだろうか。郊外に住んでいる上にお金を少ししか持ち合わせていなかったので、遅れると大変だ。彼は横断歩道の信号を無視して全速力で走っていく。約束通りに彼女が来てくれることを祈りながら。

 都司のレコードを回す時間が終了する。彼は他のDJとチェンジした後、フロアのブースの近くで仲間と喋っている。
 栞は踊りをやめて、彼を見ていた。背後から誰かが栞の肩をすれすれに歩いて来て、ぶつかりそうになった。反射的に栞は避ける。花の香りがしたかと思うと、“彼女”が颯爽と通り過ぎていく。“彼女”が、飲み物の入った数個のグラスを置いたトレーを両手に持っている。都司の所にいくと、彼とその仲間がグラスを手に取り始める。壁際の隅に押しやられた栞は、舌打ちをして“彼女”を睨み付けた。“彼女”はグラスを手に持ち、彼らと話をしては都司を見て微笑む。栞は視線を他へ逸らす。横目でちらりと都司を見ると、彼は仲間と談笑している。“彼女”も笑いながら栞を一瞥する。
 栞はその場を離れて、裏口の扉から階段に出た。階段の踊り場で座り込む。両側の壁面には雑多な文字が書かれていて、HATE! という言葉が目に入った。地下に通ずる階段を見下ろすと、奈子と痩せた男性が話しているのが目に入る。その男性をじろじろと見るが、特に栞の好みではない。彼は走って階段を上がって来る。栞の前を通り過ぎて、前方のバーフロアーを急ぎ足で通り抜け、出口の階段に向かって去っていった。しばらくして奈子が階段を上がってくる。栞は彼女を見つめた。奈子は言う。
「知り合いになったのよ」
「かっこいいの?」
「まあまあね、どんな人かしら」
 奈子は出口の階段を見つめている。
 上方近くから都司の声が聞こえてくる。奈子と栞は声の方を振り向く。階段から都司と連れの男が下りてきた。咄嗟に栞は身を壁に寄せる。奈子もスペースを空けるために壁際に寄った。都司は栞を見ながら、通り過ぎていく。彼らは鉄の扉を開けてダンスフロアに入っていく。栞は立ち上がった。
「行って来るわ」
 と奈子に言い残し彼を追っていく。まだ渡してないの、という奈子の声が、なだれ込んできたトランステクノの音に消される。
 重低音が響きわたる闇とリズムの空間へと入っていく。踊る人々の群れの向こうに、都司の姿が消える。栞は群れの中に入っていき、辺りを見る。都司はブースの近くで、男友達と話している。都司は話しながら、栞を見た。彼女の心は小躍りした。彼は男友達から離れて、また階段に続く扉の方に歩いていく。人々が沢山いるフロア内ではプレゼントを渡したくない。人気のない所で渡したい。時間をかけて作ったチョコレートだ。階段は人通りが少ない。栞は都司の後を歩く。彼は扉を押して、階段に出ていく。栞も階段に出る。都司はどんどん階段を上がっていく。巻きパンツの裾を持ち上げ、彼の後ろ姿を見ながら階段を登っていく。ふいに、彼の姿が曲がり角の踊り場に消えた。上方を凝視して、焦って階段を駆け上がっていく。
 都司の後ろ姿が、上階の踊り場に見えてくる。栞の足どりは遅くなった。ポシェットから小箱を取り出して見つめる。栞は深呼吸をして、都司の後ろ姿に近づいていく。心臓が高鳴り、足がぎこちなくなっていく。
 ふいに上階のバーフロアに続く扉が開き、“彼女”が出てきた。“彼女”はすぐに栞に気づき、都司に何かを話しかけた。“彼女”は反対側の控え室の扉を開ける。彼を促すようにして一緒に入っていく。扉の奥から“彼女”が振り返り、不穏な目をして栞を睨んだ。栞は焦って都司の背中を目で追い、足を踏み出した。
 遠ざかる彼に声をかけようと一声を発した時、バタンと大きな音を立てて扉が閉まった。
 悲鳴のような電子音が脳天に響く。小刻みな電気振動が頬を圧迫する。幾種類ものドラムの重低音が心臓を打ち鳴らす。人造人間の叫び声のような高音が尾をひいて、いつまでも木霊していた。

                                          完