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翌朝、病院で手当を受けた後、店に行ってみると、<ペルシャ絨毯・シラーズ>の扉に、事情により誠に勝手ながらしばらく休業いたします、と書かれた紙が貼ってあった。
一体どうしたというのだろう。休業するならアルバイトの自分にも連絡して告げるべきではないか。
入国管理局に行き、受け付けでスィヤのイランの免許証の差し入れと面会の手続きをした。名前を呼ばれて面会室に入りスィヤを待った。扉が開いてスィヤが入ってきた。続いて後から入官職員も入ってくる。スィヤはシズナを見た瞬間、驚いた。
「どうしたの、その顔」
 ガラスの仕切りに近づいてシズナの顔を凝視しながら椅子に座った。シズナの顔半分は絆創膏とガーゼで覆われていた。
「モニカよ」
 スィヤは絶句した。
「あんたのトランクを受け取ろうとしてアパートに行ったらこの様よ」
 二人はガラスの仕切りを介して、向き合っていた。彼は目を伏せた。
「ごめん」
「だから行きたくなかったの。モニカは本名なの? フルネームを教えて。あのアパートにはモニカが住んでるの? もうトランクは知らないわよ」
 シズナはアパートの在処を説明した。スィヤは、モニカは偽名だと言い本名をフルネームで教えた。アパートはモニカの友達が借りているものらしい。シズナは幾分落ちついて言った。
「モニカを好きなんだって? カセット聞いたよ。私を嫌いだとか」
 スィヤは少し髭が生えている顎を掻いた。
「あんなの嘘だよ。信じるなよ」
「ふん」
「ねえ、お店はどうなっているかな」
「ずっと閉まってるよ。<グリスターン>も<ペルシャ絨毯・シラーズ>も。どうしたのかしら」
「コウカブが逮捕されてしまったんだ」
「えっ、どうして」
「ビザの偽造に関わってたんだ」
「まさか。真面目な店長だったわよ」
「俺のせいだよ。俺が日本で絨毯商人をしたいから店で働かせてくれって頼んだのがいけなかったんだ。俺はオーバーステイだったから……」
「そんな……」
「コウカブは真面目で善良な男だったのに……」
 スィヤは歯をくいしばった。シズナは肩を落とした。
 二人が黙っていると、入官職員は「もういいですか」と終わりを促して立ち上がった。
スィヤはのろのろと従って立ち上がった。
「イランの運転免許証持ってきてくれて、ありがとう」
「いいえ、当然のことよ。また来るわ」
 彼はペンで紙切れにペルシャ語で住所を書き始めた。
「イランの住所だよ。イランに帰ったらシズナの車、弁償するから銀行の口座番号を教えて」
 とスィヤは入官職員に紙切れを手渡した。入官職員はその紙切れに書いてある文字を眺めた。
「車が修理してあったわ。スィヤでしょう?」
「ああ、見てくれたんだね。でも十分に修理できなかったんだ。だから弁償するよ。顔の治療のお金も一緒に振り込むよ」
 彼女はスィヤを見つめた。
「後で口座番号を書いた紙を渡すわ。トランクもあったら持ってくるわ」
 シズナも立ち上がった。スィヤは面会室の出口に向かいながら振り返り、シズナの顔をじっと見ていた。
 彼女は、銀行の口座番号を書いた紙を、スィヤに渡してください、と入官職員に手渡した。

 部屋に戻り、Tシャツと短パンに着替えてぼんやりした。体から力が抜けていく感じがした。テレビをつけてニュース番組を見ても、架空の出来事のように思えた。ユキコやモジダバから電話があるかもしれないと思い、電話機に耳をそばだてていた。電話機の呼び出し音が鳴ったので、すぐに受話器を取るとコウスケだった。
「元気? どうしてる?」
「元気じゃないわ。コロンビア人に殴られて顔に怪我したし、お店もしばらく休業で働いていないのよ」
「お前、顔に怪我したって、どんな状態なんだい」
「大丈夫よ。たいした怪我ではないけど、傷跡が残ってしまうわ」
「だから、あまり変な外国人と関わるなよって言ったろ」
「……でもお店の人たちは、夢を持って頑張っていたのよ」
「いくら夢があるって言ってもね、現実は厳しいんだぜ。夢や好きなことで生活したいなんて言っていないで、これを機に現実的になったらどうだい」
「私は始めから現実的だわ」
「そんな生き方じゃ食っていけないぜ。俺はね、塾の講師辞めて田舎に帰ろうかと思ってる」
「あら、どうして?」
「東京で高い家賃払って小説書いててもプロになれるかどうかわかんねえし。プロになっても儲からないし。故郷で家の酒屋の仕事を継ごうかなと思ってるんだ」
「そうなの」
「うん。シズナ、もうイラン人には懲りただろう? まだイラン人の恋人とつき合ってんの?」
「別に、恋人じゃないよ」
「そうか、俺と恋人になって田舎に帰らないか? シズナはお店で働きたいんだろう?」
「ありがとう。でも、お酒には興味がないわ」
「でも食いっぱぐれはないよ。うち大きな店だから」
「でもやりたいことじゃないのよ」
「俺だって酒の商売をやりたいわけじゃないけど、かといって他に興味をそそられる仕事もないしな。金持ちになってうまいもの食ってのんびりしていたいな」
 シズナは黙った。話すことがなくなったので、受話器を置いた。コウスケは老人みたいなことを言う。一緒にいるとつまらない。コウスケの実家で、興味のわかない仕事を仕方なくやっている人生を思い描くだけで意気阻喪してしまう。
 ユキコやモジダバはどうしているだろう。店はずっと休業したままなのだろうか。何かあったら連絡を下さい、というメモをポストに入れておこうと思い立ち、店に向かった。
 <ペルシャ絨毯・シラーズ>の前に数台の警察車両が停めてあった。店内に明かりがついていて、警察官や刑事らしい私服の男たちが荒々しく店内を動き回っていた。床には段ボールの箱が積んであり、険しい表情をした刑事の質問にコウカブが答えているのが見える。手には手錠がかけられていた。レジスターの奥の事務室にも何人もの警察官がいて、ユキコの顔も見える。
「コウカブさん」
 シズナは駆け寄って店内に入った。男たちが一斉に振り向き、一人の警察官が、あなたは誰ですか? と聞いた。アルバイトで働いていたことと名前を告げると、私服の刑事が、話を聞かせてくださいよ、と警察手帳を見せて言う。<ペルシャ絨毯・シラーズ>と関わるようになった経緯や仕事の内容やコウカブやスィヤについて質問してくる。聞かれるままに答えると、刑事はノートに書き留めた。
「コウカブさんが何をしたっていうんですか?」
 シズナが言うと刑事は答えた。
「スィヤのビザ関係の書類を偽造していたのですよ」
「コウカブさんもスィヤも夢と希望を持って真面目に働いていました」
「真面目に働いていても、書類を偽造したら犯罪者ですよ、犯罪者」
「私の車を壊して暴力を振るったモニカの方が犯罪者だわ」
 モニカに殴られて顔に傷を負ったこと、車を壊されたこと、スィヤから聞いたモニカの本名やアパートの住所なども言った。刑事は書き終わって腕を組んだ。
「その女を捕まえるのは難しいですよ」
「ひどい目に合ったんですよ。車もダメになったし。顔に傷跡は残るし。償ってもらいたいわ」
「そのコロンビア人は、どうしてそこまで攻撃したんです?」
「キレやすいのよ」
「ただの嫉妬ですかね? それにしてはひどいなあ。何があったのかわからないけど、もうどこへ行っちゃったか、わからないんでしょう?」
「そこを探して捕まえてもらいたいの。立派な犯罪者じゃないの」
「努力しますよ、でも雲を掴むようなものだから、難しいねえ。万一見つかっても、物損や暴力の犯罪を立証できるかどうか……、不法滞在で強制送還はできるけど」
 刑事は渋った顔をした。事務室から警察官が出てきて刑事に耳打ちをした。
「わかった」
刑事は険しい顔をした。
「ねえ、あなたも後で出頭してくださいよ」とシズナに言って他の警察官と一緒に事務室に入っていった。
 両側から警察官に拘束されているコウカブは情けなそうな顔をしてシズナを見て微笑んでいた。ユキコは事務室の奥で、警察官たちの指図を受けていた。コウカブも奥から呼ばれて、警察官の付き添いと共に事務室に姿を消した。
 シズナは呆然としてその場に佇んでいた。後ろから警察官たちがやってきてシズナの肩にぶつかり事務室に入っていく。書類を詰めたダンボールを抱えて、ちょっとどいて、とシズナの足を踏んで通り過ぎ警察車両の中に積み上げていった。

 スィヤはイランへ強制送還され、コウカブには懲役一年が言い渡された。ユキコとモジダバはビザの偽造に関わっていなかったので罪に問われることはなかったが、舵取りを失ったために店の経営が難しくなり休業したままだった。
 シズナは警察に拘置されているコウカブを訪れた。
「よく来てくれたね」
 コウカブは嬉しそうだったが、皮膚が荒れて目の下に隈ができていた。
「もう日本には住めなくなってしまったよ。バカなことをしてしまった……」
「どうしてビザの偽造なんかしたのですか。真面目な店だと思って働いていたのに」
 コウカブの隣りで監視している警察官が小刻みにうなずいた。
「私もみんな真面目に働いていましたよ。スィヤにビザを与えたいと思っただけですよ。スィヤを十年以上前から知ってたんです。スィヤは高校生の時から日本で絨毯の仕事をしたいって言っていました。スィヤの家族のことも知ってますよ。家は昔から絨毯屋です。スィヤは八年前に日本に来てオーバーステイでしたが、<ペルシャ絨毯・シラーズ>で働きたいといつも言っていたんです。でも今は正規の就業ビザを取るのがとても難しくて……。偽の文書が簡単にできると知って……つい……」
 コウカブはイスラム教の祈りに使う数珠を手に持っていた。
「だからって、法律違反しちゃあいけないだろう」
 と横から警察官が口を挟んだ。
「シズナさんはこれからどうするんですか?」
「まだわかりません」
「店はうまくいってたのに……今となっては銀行の借金ばかりだ」
「サンキュウ商事が絨毯を買い取ったんじゃないのですか?」
「ああ。サンキュウ商事ですか。絨毯を持っていかれてまだお金は未払いなんですよ。スィヤがお金を取り立てようとしたら、逆にオーバーステイで通報されちゃったんですよ。狡い奴らだ」
「そうだったんですか」シズナは俯いた。
「オーバーステイはいけないだろうが」と警察官が言う。
 コウカブは警察官の言葉を遮って、シズナに聞いた。
「スィヤとは結婚するのですか?」
 コウカブは聞いた。
「け、結婚だなんて……まだ考えたことありません」
「結婚したら、スィヤはまた日本に来て仕事ができるかもしれない」
 コウカブの顔は生真面目だった。シズナはどぎまぎして言った。
「今日はこれで失礼します」
 彼女は頭を下げた。コウカブの背が低くて、白髪の多い後ろ姿を見た。小太りで少し背が曲がっている。苦労をしたのだろう。イランで戦争をくぐり抜け、シズナの知らない人生を歩んできた人だった。彼は毎日祈りをしているとモジダバから聞いたことがある。スィヤもイスラム教徒だが、祈りをするところを見たことはない。だが信じるものや希望を持っていただろう。モニカだって何かを信じていたに違いない。コウカブの後ろ姿をずっと見ていた。彼は、スィヤを知っている数少ない人だった。
 待合室で面会を待っているユキコとモジダバに会った。シズナは、「<ペルシャ絨毯・シラーズ>は休業になったままだし一体どうしたのですか」と心配していたことを告げると、彼らは、経営がうまくいかなくなった、サンキュウ商事がお金を支払わないので裁判に訴えると言っていた。
「何かあったら連絡するわ。また手伝ってね」
 とユキコはシズナの手を握った。
「もちろんです」
 シズナはユキコとモジダバの顔を交互に見て、深くうなずいた。短い期間だったが、同じ意志と希望を持って働いた仲間だった。自分にできることがあれば力になりたい。

数週間が経ったがユキコやモジダバから何の連絡もなかった。<ペルシャ絨毯・シラーズ>に電話をしてみたが、その電話番号は今使われていません、と人工の声がする。思いあまって店に行ってみた。<ペルシャ絨毯・シラーズ>があった部屋は内装工事が行われている最中で、入り口に<スターバックス>というコーヒーショップの看板がかかっていた。<グリスターン>の内部はがらんどうで暗かった。窓ガラスに<テナント募集>という貼り紙がしてあった。
 シズナはまた失業した。
 高い鉄筋コンクリートのビルに囲まれ、流行の服を着た人々や外車が行き交い、様々な騒音が入り乱れていた。ショウウインドウに飾られた蛍光色の派手な衣装を着たマネキンが、こちらを見て笑っていた。極彩色の看板や電気がチカチカしている。
 鼓膜と視界に薄い膜がかかったように現実感がなくなった。
 色とりどりの電気の装飾と騒音が渦巻く都会の真ん中で、ぼんやりと立ちつくしていた。

 暗い雑木林の奥で、一匹のミンミンゼミが叫ぶような鳴き声を上げた。シズナは段ボールの中に衣類や雑貨を詰め込んでいた。部屋は空になった本棚や食器棚、テレビラック、エアコンだけになり隅には梱包した段ボールが積んであった。キリムの敷物には薄紙を巻いて長細い箱にしまった。
 開いた窓からは、排気ガスの匂いを含んだ涼しい微風が入ってくる。風は摩天楼の谷間からやってくるのだろうか。遠くの方から、交通の騒音がくぐもって聞こえてくる。安い木材やプラスティックでできた住宅や薄汚れた鉄筋コンクリートの低層ビルが密集する街の向こうに、人工光に溢れる都市の街が見えた。
 薄暮の空高くに超高層ビル群が屹立していて雑多なビルが裾野に広がっている。けばけばしいライトと排気ガスと埃に覆われたコンクリートの廃墟のようだった。空に突出している巨大な電波塔の赤色灯が点滅し、尖塔から長い針のようなアンテナが夜空を貫いている。街に電磁波が及んで、人々の体の細胞に異変をきたしはしないか、と少し不安になった。電磁波や大気汚染に常に晒されていることに違和感を感じて空を見た。沈んだ夕陽の残光が入り交じった暗い空に、小さなガラス片のような星が一つ見えた。暗くなったり光ったりゆらゆらと瞬いている。東京の星は小さい、とスィヤが言っていたのを思い出した。
 シズナ、と玄関の扉を叩く音がした。返事をするとコウスケが入ってきた。
「鍵かかってなかったよ」
「あらそう?」
 段ボールにテープを貼りながらコウスケを見上げた。
「引っ越しするの?」
「うん」
「言えば手伝いに来たのに」
「ありがとう。もうすぐ終わるから大丈夫。家具類はいらないの。持っていってもいいよ」
「俺ももうすぐ引っ越しなんだ。荷物は少ない方が良いからいらないよ」
「郷里に帰るの?」
「そうだよ。家業を継ぐんだ。親も老いてきたし、俺がしっかりしなくっちゃ。シズナは?」
「私も親のもとに帰ろうと思うの。お店がなくなって、もう家賃は払えないわ」
 シズナの銀行の口座には、イランに帰国したスィヤから、車の弁償金に数万円を加算した金額が振り込まれていた。店がつぶれて金がなく借金もあるというのに、力を振り絞って返してくれた金だ。その金が、無職のまま家賃や食事代に消えていくのは嫌だった。
「実家に帰ってどうするんだい?」
「英語やペルシャ語の復習をして、簿記や法律を勉強するつもりよ。いつか中近東の商品を扱う店を持ちたいわ。お金も貯めなくっちゃ」
「ふうん」
「コウスケ、小説は?」
「進まなくてな。もう忘れちゃったよ」
「そう」
彼女は段ボールの荷造りをし始めた。
「もう会えなくなるのは寂しいな」
「そうね」
 シズナはコップを新聞紙で包みながら言った。
「シズナ……」
 コウスケが呟いて、彼女の髪に触れてきた。
「んもう、触らないで。また電話するわ」
 彼は実家の住所と電話番号を書いた紙をシズナの前に置いた。彼女はコウスケを見上げた。
「じゃあな、元気でな」
 コウスケは言った。二人はしばし見つめ合ったが、何事も起こらなかった。彼は部屋を出ていった。
シズナは食べ物を買いに部屋を出た。階段を降りて郵便ポストを覗くと、分厚い国際郵便が入っているのが見えた。エアメイルと記されている封筒には、マジッド・ムーサヴィーという知らない名前と住所と電話番号が書いてある。 部屋に戻って封筒を開けてみると、中には手紙とドル紙幣と本が入っていた。裸電球の明かりの下で手紙を広げると、英語でこう書いてあった。
 ――シズナさん、私はホジャの兄です。ホジャとアリは日本からイランに強制送還されました。日本の政府は難民に冷たいです。今は、ホジャとアリは警察に捕まって収容所にいます。いつ出られるかまだわかりません。シズナさんには大変お世話になりました。シズナさんはホジャの病気のためにアリにお金を貸しました。ありがとうございました。シズナさんは優しい人です。これから少しずつ返します。いつか全部返します。本は気持ちです。ハーフィズの詩です。いつかイランに遊びに来てください――
 豪華な装幀のハーフィズ詩集を開いて見た。英語とペルシャ語で書いてある本だった。
 シズナは目を落として、畳を見つめた。荷造りをやめてじっとしていた。
 畳の上の電話が鳴った。受話器を取ると、海外につながる時のピッという電子音が聞こえた。遠くからスィヤの声がした。
「シズナさん」
「スィヤ?」
 シズナは受話器を両手で持って耳に押しつけた。聞き覚えのある嬉しそうな笑い声が聞こえた。
「元気かい」
「元気よ。でもお店がなくなって仕事がないわ。ユキコやモジダバはどうしているかしら」
「失業しているよ。裁判で金がかかってるんだ」
「スィヤはどうしてるの?」
「家の絨毯の商売を手伝ってるよ」
「へえ、調子どう?」
「あんまり儲からないけど面白いよ。でも本当は日本で働きたいんだ」
「そうね。いつか日本に来れると良いわね。ホジャとアリは大丈夫かしら。イランの収容所にいるんだって」
「まずいね」
「死刑になったりするのかしら」
「わからないよ」
 シズナは黙った。
「ねえ、イランに来てみたら」
「そうね。行ってみたいわ」
「いつ?」
「まだわかんない」
「待ってるよ。家族も友達もシズナに会いたいって」
「家族に会うのはイランでは婚約の意味じゃないの?」
「そうだけど、あんまり気にしなくていいよ。もし嫌だったら親戚の家に泊まれば良いよ」
「ありがとう」
「旅費に困っていたら、僕がお金を貸すよ」
 シズナは笑った。スィヤは尋ねた。
「今は何をしているの?」
「実家に帰って勉強したり仕事してお金を貯めるつもり。いつか中近東の織物や雑貨を扱うお店を持ちたいの」
「僕にできることがあったら言ってね。イランに来る時は教えてね。ビザの手配や現地の案内をするから」
「わかった」
「待ってるよ」
「うん」
 気持ちが落ち着いて、受話器を置いた。荷造りはやめて畳に寝そべった。段ボールの積んである窓際の方を見ると、暗闇の向こうに星空があった。スィヤも同じ夜空を見ているはずだ。
 小さな星が点在するピンクがかった夜空の下に高層ビルが見えた。壁には明るい窓が縦横に並び、あちこちで赤色灯が点滅している。あの高いビルの中で多くの人々が深夜でも働いているのだ。情報に満ち人や物でひしめいていたが、シズナには遠いものに感じられた。
 スィヤの声、布団の中で苦しげにしていたホジャの顔、ホジャに付き添っていたアリの姿、などが間近に感じられる。
 ずっと過去に、いつかイランを訪れたいと思いながらペルシャ語を勉強していたのを思い出した。
 目を閉じると、テヘランの街並みや土でできた鳥葬の塔の写真が載っていたペルシャ語の本が浮かんできた。
 イランに行ってみたい。またスィヤに会えるだろう。彼の家族にも会ってみたい。ホジャやアリとも会ってみたい。急に疲れが取れて頭がすっきりした。
 手足を伸ばして、起き上がる。段ボールの蓋を留めてあったガムテープをカッターで切って開けた。昔に勉強したペルシャ語の本を手に取って頁をめくり始めた。

                                                完

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