キャラバン夜想曲 page (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (10/10)

 スィヤは人手が足りない分、よく働いた。彼は深夜まで<ペルシャ絨毯・シラーズ>の事務室でコウカブやユキコと打ち合わせをしたり日本語で書類を書いたりしていた。シズナは先に仕事を終えて一人で電車で帰ることがしばしばだった。夜、<グリスターン>を閉じて店内を掃除した後、シズナは言った。
「まだ、帰らないの?」
「うん。これからコウカブに税金のこと、教えてもらうから」
「いろいろ勉強しているのね」
「シズナはもう帰って良いよ。遅いんだから」
「うん」
 シズナはスィヤに近寄って頬にキスした。彼女がスィアの髪を撫でると彼は言った。
「ガラスの向こうから人が見てるよ」
 絨毯が飾ってある窓ガラスの間から、夜の暗い道と向かいのビルが見えた。
「じゃ、あっちに行こう」
 シズナはレジスターの奥の部屋を指差した。
「ダメだよ」
「どうして?」
「モニカを裏切ったら可哀想」
 彼は両手を垂らしたままじっとしている。
「そう」
 シズナは俯いた。
「じゃね」
 彼女は身体を離してバッグを持った。緑の扉を押しながら、彼を振り返った。
「モニカを好き?」
「たぶん」
「そう」
彼女は力なく緑の扉を開けて出ていった。生暖かい夜風が頬を撫でる。また明日も、元気に働くスィヤと会える、そう思うと胸が暖かくなってくる感じがした。夕食は何にしようか、シズナは夜道を急ぎながら考えた。冷蔵庫に入っている食材で、肉野菜炒めを作ろう。コウスケが部屋に来なくなってから、夕食はいつも炒め物だった。このところ、すぐにできる料理ばかりが続いていた。

 この日も仕事が終わってシズナは早々と電車で帰宅した。休日の前日だったが、スィヤは深夜まで<ペルシャ絨毯・シラーズ>の事務室でユキコやコウカブと打ち合わせをする予定だったので、シズナは一人で帰った。いつものように食事や入浴を済まし、テレビを観る。コウスケが部屋に来ることはなくなり、最近は休日も一人で過ごすことが多かった。
 十二時頃、布団を敷いていると電話の呼び出し音が鳴った。受話器を取ると、朝霞警察署からだった。シズナの自動車が川越街道で事故を起こしたと言う。彼女は驚いて声を上げた。
「お宅の車が横からぶつかってきて相手方の車が壊れたんですよ、今のところ怪我人は出てないんだが、相手方が話し合いをしようと車から出たとたんに、ドライバーがお宅の車に乗ったまま逃げたらしいんですよ。どうやら外国人でね、色黒で背が高くて中東の人間らしいんですよ。それで事情を聞きたいんだけどね……」
 質問責めにあったが、シズナは丁重に答えた。スィヤというイラン人に車を貸したと言うと、明日の昼までにスィヤと一緒に朝霞警察署に来てくれと言う。ドライバーがスィヤだったのかどうかまだわからないが、車を貸した自分に責任がある。相手が悪質な人間なら、不当な額の医療費を脅し取ったり、車の修繕費を法外に見積もって請求してくる可能性もある。それでもなくても車の修繕費は高くつく。ドライバーが確定しないと、自動車保険も降りないだろう。シズナの車の運転に落ち度があって事故が起きたのが事実ならば、相手に修理代を払わねばならない。後日、修理代の請求書がシズナの住所に届くという。警察に聞かれるまま、スィヤの店の住所や電話番号も言った。警察は、明日の昼までにスィヤと警察署に来るようにとシズナに念を押した。
 受話器を置くと、背中が寒くなり心臓が鳴ってくるのを感じた。スィヤの携帯に電話をすると、電源が切れているか、電波の届かないところにいます、という人工の女の声がした。店に電話をしてみたが真夜中なので誰もいない。明日は定休日だから、明後日まで店には誰もいない。
 もしドライバーがスィヤだとしたら、どうして逃げたのだろう、どうして携帯がつながらないのだろうか、という考えが起きてきた。それとも、スィヤは誰か別のイラン人に車を貸したのだろうか、あるいは何か事件に巻き込まれたのかもしれない。このままスィヤが行方をくらましたら、と考えると身震いがした。どこかへ逃げてモニカといちゃついていることを想像すると腹が立ってくる。だが、そんなことをする人ではないと思う。
 モジダバの電話番号は知らなかったが、コウカブの名刺を持っていたので、すぐに自宅に電話をした。もう就寝している時刻だと思ったが、緊急の出来事なのでやむを得ない。意外にもコウカブは起きていて、はっきりとした口調で電話口に出た。シズナが事情を話すと、自分もスィヤに連絡を取ってみると彼は言った。しばらく待っていたが、コウカブからの電話はなかった。彼女は気になって、自分からコウカブに電話をした。コウカブは言う。
「何回もスィヤに電話をしてるけど、電波が切れてるよ、大変なことになったね。人に聞いて探しているところだけど、どこに行ったのかわからないよ」
 シズナは落ち着かずに、布団の上を踏んで歩き回った。スィヤの携帯にまた電話をしたが、電源は切れていた。仕方なしに、電気を消して布団の中に入った。目を閉じていても、眠れない。瞼を開けると、暗闇がのしかかってきた。目が慣れてくると、木目の天井がうっすらと見えた。大きな黒い染みが、巨大な甲殻類の生き物に見えて怖くなる。毛布を頭まで被り、硬く目を閉じて眠りが訪れるのを待った。
 いつの間にか眠っていたが、ふと目が覚めて置き時計を見るとまだ三時だった。カーテンの隙間から、闇夜の中にそびえ立つ黒い高層ビルが見えた。建物に付着した赤い電灯が点滅している。ビルは洞窟のように真っ暗で、マンボウがじっとしていた。
 遠くからサイレンの音が聞こえてきた。この街のどこかにスィヤがいる、と思った。シズナは起き上がって受話器を取り、彼の携帯の番号をプッシュした。電波がつながった。呼び出し音が鳴っているのに、彼は出ない。二十回ぐらい鳴らして電話を切った。寝ているのだろうか、そうだとしてもあれだけ鳴らせば起きるはずだ。電波が急に通じたのを考えると彼に何かの変化があったはずで、寝入ったとしてもそれほど時間は経っていないだろう。それとも、わざと電話に出ないのだろうか。
 シズナはまた寝床に入った。一人で朝霞警察署に行って事情聴取を受けるのは嫌だった。事故の相手はどんな人だろうか。今後支払わねばならない金額のことを考えると、頭が重くなる。ドライバーが逃げたというのだから、事故の真相を掴めないだけでなく、車の管理責任もシズナに問われ非常に不利な状況になってしまう。
 深いため息をついて目を瞬いた。毛布を頭まで被って、寝入ろうとした。意識は冴えていたが、目を閉じてじっとしていた。鼻の頭やこめかみから汗が出てきた。蒸し暑いのに寒気を感じて毛布にくるまり、海老のように丸くなっていた。

 翌朝、けたたましい電話の呼び出し音で目が覚めた。朝霞警察署ですが、という男の低く太い声がまどろみの被膜を突き破った。
「ドライバーが見つからないんですけどね、車はありますか?」
「駐車場に行ってみないとわかりません」
「行って見てきてくださいよ。また事故が起きたら大変なことになりますよ」
「わかりました」
 シズナは寝ぼけた顔でジーンズとシャツを着て部屋を出た。木造家屋や倉庫の並ぶ路地を急いで歩き駐車場に行った。ブロック塀と雑草や木に囲まれたひっそりとした空き地の真ん中に、シズナの軽自動車が駐車してあった。座席には誰もいない。近寄って見ると、車体前部のバンパーの角の部分が潰れ、方向指示灯が割れて、その周囲に掠ったと思われる小さな傷が沢山あった。事故は大きなものではなかった。ドライバーはここまで運転してきたのだから身体は大丈夫なのだろう。
 ドライバーはスィヤなのだろうか、駐車場に戻ってきて車を停めているのだから、悪意はないはずだ。シズナは携帯を取り出して、スィヤに電話をした。電波がつながったので、何度も呼び出し音を鳴らした。すると、伝言メッセージの人工の女の声が聞こえた。シズナは捲し立てた。
「スィヤ、どうして電話に出ないの。事故のために、今日のお昼までに警察に行かなきゃいけないのよ、何考えてるの? 電話に出て」
 そこまで言うと、伝言メッセージの時間制限がきた。電話を切ると、すぐに着信音が鳴った。電話に出ると、朝霞警察署だった。
「車はありますか?」
「はい」
「スィヤと一緒にあなたが車を運転して来てください。スィヤの免許証とパスポートを忘れないように」
「あ、はい」
 通話を終えると、またスィヤに電話をした。また伝言メッセージにつながった。同じことを繰り返し言って、時間制限がくると切った。また着信音が鳴る。電話に出ると、また朝霞警察署だった。
「スィヤと連絡とれましたか?」
「いいえ」
「もしスィヤが来れないなら、事故はあなたの責任ですよ」
「なんですって」
「仕方ないでしょう。あなたの車の管理が悪いんだから」
「スィヤを連れてきます」
「そうしてください」
 シズナは再びスィヤに電話をした。何回か呼び出し音が鳴った後、電話口に誰かが出た。相手が黙っているので、声を張り上げてスィヤに怒りをぶつけると、モニカの大きな声が耳に飛び込んできた。
「あんた、バカ、かわいそう。あたしスィヤといっしょ。いっしょコロンビアかえる。あんた、バカ」
「なんだって。スィヤに替わってよ。事故をおこして、大変なんだから」
 突然、ガチャと電話が切れた。シズナはすぐに電話をかけ直した。今度は、伝言メッセージになっていた。
「スィヤ、どうして電話に出ないの? アサカ警察に、これからスィヤと一緒に車で来いって言われたのよ。ドライバーがいなかったら、私のせいになってとても困るのよ」
 ここまで言うと、伝言メッセージの時間制限で録音が切れた。シズナは舌打ちをして、自分の車の周囲を歩き回った。相手に支払う修理代を考えると不安になり、自動車の保険会社に電話をした。やはり、ドライバーが確定しないと保険金が下りない、と言う。相手の車の修理代を自分が払うのかと思うと、怒りが募ってきた。携帯の着信音が鳴る。何よ、と電話を受けると、また朝霞警察署からだった。
「スィヤは見つかりましたか?」
「スィヤに電話をしても電波がつながらないんですよ」
「あなた一人でも早く来てくださいよ」
 舌打ちをして通話を切り、再びスィヤの携帯にかけると、また伝言メッセージだった。
「何考えてんの! あんたのせいで私が警察に行かなきゃいけないじゃないの! 相手の車の修理代も私が払わなきゃいけないし、私の車も壊れたし、どうしてくれるのよ!」
 そう吹き込むと、シズナは檻の中の虎のように、車の周囲を行ったり来たりした。また携帯が鳴った。通話ボタンを押して耳に当てると、スィヤの小さな声がした。
「ごめんなさいね」
「ごめんなさいね、じゃないよ。どうして電話に出ないの?」
「さっき起きたんだ。俺じゃないよ」
「じゃ誰なの? あんた人に貸したの? 仕事のために車を貸してたのよ。大変なことになったじゃない!」
「すみません。ゆうべ友達の家に行って眠っていたら、友達が俺のバッグから車のキーを取り出して夜中にドライブに行ったみたいで、そいつが事故を起こしたんだ」
「その友達は何て言うの?」
「ハジ・レザイー」
「そいつを連れてきて。これからスィヤと来いって、警察が言ってるよ」
「さっきハジに電話したけど、電源が切れてるからつながらないんだよ。他の友達にも電話してるけど、ハジはどこかに逃げたみたい」
「なんですって! 困るじゃないの。どうしてくれるのよ」
「これから、僕がそっちに行くから」
「あんた、モニカと一緒にいるんでしょう?」
「うん」
 電話の向こうから、モニカがスペイン語で何か喋っているのがくぐもって聞こえる。モニカと一緒にいることが不愉快だったが、事故とは関係なさそうだった。
「早く来て」
「わかったよ」
 ひとまず安心して、通話を切った。駐車場の入り口がよく見渡せる街宣車の近くの木陰の丸太に座った。太陽が昇り気温が上がって日差しも強さを増してきたが、高い塀や倉庫や雑木に囲まれて日陰になっているので、暑さを感じない。風も通らず、空気は停滞している。
 古アパートの扉のない薄暗い玄関から、ネグリジェにガウンを羽織っただけの、ピンクのカーラーを髪に沢山つけた中年女性があくびをしながら出てきた。この駐車場の管理人だった。手には財布のようなものを持っているから、コンビニエンスストアにでも行くのだろう。シズナはお辞儀をしたが、おばさんは少し顎を引いただけで出ていった。
 本当にスィヤは来るのだろうか。シズナはため息をついてまたスィヤに電話をした。相手が無言なのでシズナは言った。
「もしもし、スィヤ」
「バーカ、あたしモニカ、スィヤといっしょ、これからともだちイエいく。あんたじゃま」
 シズナは乱暴に通話のOFFボタンを押した。スィヤの携帯にモニカが出るということは、まだ彼は家を出ていないのだろうか。まだモニカと一緒にいるのだろうか。
 立ち上がって丸太を蹴った。鈍い小さな音と共に丸太の底が少し地面から離れたが、また元に戻った。辺りはまたしんとした。古アパートも、駐車場の管理人以外の住民がいないような寂れた様相をしている。柱が傾いている玄関の暗い空間にコンクリートの流し台が見える。水気がなく、蛇口の上方に取り付けてある鏡も割れて塵埃がこびりついている。
 遠くから、バイクの音が聞こえてきたような気がした。古アパートを通り過ぎ駐車場を出て、路地に出た。バイクもバイクの音もない。人通りもなかった。ため息をついて、駐車場に戻った。
 太陽が昇り明るい日差しが古アパートをじりじりと射していた。樹木の方にも陽光が届いてくるが、木陰になっているので涼しい。ピンクのカーラーおばさんがビニール袋を提げて戻ってきた。訝しげにシズナを見ながら古アパートの暗い空間の奥へ入っていく。
 またバイクの音がどこかでしたような気がした。駐車場を走って路地に出た。向かいの木造家屋の玄関の戸が軋みながら開き、短パン姿の男がゴミ袋を持って出てきた。男は路地を歩いて古アパートの前にゴミ袋を捨てると、すぐに木造家屋に戻っていった。ふいに、バイクの走る音がして、路地の先を横切る表通りからスィヤの乗ったバイクが姿を現した。彼はドラム缶のそばにバイクを停め、ヘルメットを脱いで言った。
「ごめんね」
 シズナのスィヤへの怒りが少し鎮まった。だが、見知らぬイラン人が事故を起こしたために自分が責任を取る羽目になることを考えると、無性に腹が立つ。
「事故を起こしたイラン人はどうしたの?」
と詰問した。
「捜してるけど、電話がつながらないんだ。ハジのアパート行ったら、ハジがいないんだ。ハジの荷物もなくなってるんだ。ハジと一緒に住んでいる友達が言った。ハジはどっかに逃げたって」
「ハジの電話番号とアパート教えて」
 スィヤは素直に教えた。シズナはすぐにハジに電話をした。電源が切れているか電波の届かないところにいます、という人工の女声のメッセージが流れている。
「じゃ、一緒にアサカ警察署に行こう。警察に事情を話して」
「そうだね。ねえ、シズナ、お願いだけど」
「なあに」
「僕は今、ビザを更新してるところなんだ。警察に行っていろいろ書類書くのは嫌なんだよ。それに、これから絨毯の大事な契約があるんだ。相手は知り合いのサンキュウ商事という絨毯業者なんだ。たくさん買ってくれるんだよ。うまくいったらこれからずっと安心だよ。お店も儲かるよ。シズナが一人で行ってくれないかな」
「なんですって」
「お願いします。向こうの車の修理代、僕が全部払うから」
 スィヤはお札の束が入った封筒を取り出した。
「ここに三十万円あります。もし足りなかったら言ってください」
 彼はシズナに差し出した。彼女はゆっくりと受け取った。
「私の車の修理代は誰が払うのよ」
「後で僕が直すよ」
「ドライバーが来れば保険が下りるのに」
「僕はドライバーじゃないんだよ。僕が行っても行かなくても、保険は下りないんだ」
 シズナは黙った。
「契約がうまくいってお店が儲かったら新車を買ってあげるよ。とりあえず三十万円払うから、今日はシズナが警察に行って話して。警察がどうしても来いと言ったら、僕も後で行くから」
 スィヤは肩と両手をだらりと落とし、眉を寄せてシズナを見つめた。彼女も肩を落として彼を見た。札の入った封筒を掴みながらも、下を向いて雑草を踏んで物思いに沈んだ。
 遠くから、スィヤ、と呼ぶ女の声がする。シズナとスィヤが振り返ると、駐車場にモニカが入ってきた。モニカは口を歪ませて、二人を睨みつけている。シズナに近づいて太い声で言った。
「あんた、うるさいよ。これ、あんたのくるま、スィヤかんけいない」
 スィヤはモニカに向かってスペイン語で事情を話す。モニカはヒステリックになって言い立てた。二人は争い始めたが、スィヤが一喝すると急にモニカは大人しくなった。シズナの携帯が鳴った。朝霞警察署からだった。
「早く来てくださいよ、何時頃になるんですか」
 シズナは答えながら、スィヤがここに居ることを言おうかと迷ったが、彼が激しく手を左右に振るので黙った。通話を切った後、シズナはモニカをちらりと見て言った。
「スィヤ、やっぱり一緒に来てくれる?」
「……そうか。わかったよ。これから絨毯の契約の仕事、断るよ。僕のお店が儲かるチャンスだったのに」
 彼はうなだれた。シズナも契約が破綻するのは本意ではなかった。だがモニカのふてぶてしい顔を見ると、腹が立つ。取りあえずスィヤと一緒に車に乗ってここを離れ、二人きりになりたかった。
「スィヤ、一緒に行きましょうよ」
「わかったよ」
 彼は弱々しく言った。二人は車に向かおうとした。するとモニカが叫んだ。
「あたしもいく!」
 彼女は駆け寄ってきた。スィヤはモニカをスペイン語でここに留まっているように説得したが、無駄だった。モニカはスィヤの横に付いて一緒に行こうとする。シズナは舌打ちをした。
「もう、いいよ。私一人で行く。あんたたちにもう関わってらんない」
 シズナは踵を返し、車に向かった。
「待って」
 後からスィヤの声がした。シズナが少し振り返ると、彼が近づいて言った。
「僕も行くよ。契約はあきらめるよ」
「もういいよ。私が一人で行ってくる。スィヤには夢があるんだし」
「でも、僕が悪かったんだから」
「あたしもいく!」
 モニカが甲高い声で言いながら大股で近づいてきた。スィヤがスペイン語でモニカに話しかけると、彼女は激しい剣幕で言い返した。彼らは言い合いになっが、スィヤが大声で叱った。
 モニカは一瞬黙ると、シズナを睨みつけ、急に躍りかかってきた。モニカは彼女の髪の毛を掴み引っ張った。シズナは悲鳴を上げた。モニカはシズナの長い髪を持って引きずり回す。スィヤは慌てて、モニカを引き離した。
「モニカ、やめろ!」
 スィヤに両手を掴まれたモニカは、潤んだ目で彼を見つめた。
「何すんのよ、痛いじゃないの」
 シズナは頭を抱えた。
「謝れよ、モニカ、シズナに謝れよ」
 モニカは今にも泣き出しそうな顔をしてスィヤを見つめた。
「謝れよ!」
 スィヤが大きな声で言うと、モニカは顔を横に振った。
「バカじゃないのこの女。警察に言うよ、どうせオーバーステイの売春女でしょう」
 シズナは髪を庇いながら言った。モニカはふてくされて横を向いている。スィヤは言う。
「ごめんな、シズナ、ごめんな。こいつ何にも知らないから」
 この時またシズナの携帯が鳴った。通話ボタンを押すと、朝霞警察署だった。シズナはこの一件とスィヤの事情を話そうとして、喉まで言葉が出かかった。しかしスィヤの悲しげな瞳にぶつかってためらった。もしも、自分がスィヤとつき合う延長で結婚があるとしたら、彼の店が儲かって仕事が安定した時だとシズナは瞬間的に思った。スィヤの横で鼻水をすすっているモニカが急に愚かな女に見えて、シズナは落ち着いた声で言った。
「これから行くところです」
 三人の感情的な興奮がおさまって、静かになった。シズナは通話を切って、彼らを振り返った。
「行ってくるよ」
 スィヤは頼りなげに突っ立っている。
「ごめんね、シズナの車、後で修理するから」
 シズナは返事をせずに車に乗り込んだ。スィヤが後方に回って両腕を上げ、オーライ、オーライ、と言う。その横でモニカが恨めしげに車とシズナを見ていた。シズナは車をバックさせて、前部を駐車場の出入り口に向けた。スィヤは運転席に近づいてきた。
「気をつけてね」
「うん」
 シズナを乗せた車は徐行して、大きな石やコンクリートの破片を踏みつけながら古アパートを横切っていった。路地を前にしてウィンカーを出し、ルームミラーで彼らを見た。スィヤは猫背になって両手をだらりと下げこちらを見つめている。筋肉質とはいえ痩せた身体が、いかにも弱々しげに見えた。その背後でモニカが、暗い目をしてこちらを睨んでいた。
 シズナは右折して路地に出た。車の行き来が激しい片側二車線の表通りに突き当たり、ウィンカーを出した。ちらりとルームミラーを見ると、駐車場を出たところの路地に、スィヤが心配げな面持ちでこちらを見て立っていた。シズナの車は車間距離を空けてくれた車の前方に入った。交通の流れの一部になって、朝霞警察署に向かった。

 朝霞警察署の、交通事故課という札がかかっている部屋のドアを開けた。スチールデスクが中央の空間を囲むように壁際に並び、真向かいの窓の前にある重厚な木質の机が厳粛な雰囲気を漂わせてこちらを向いていた。課長が座る机らしいが、誰も座っていなかった。部屋は閑散としていて、数人の私服の警察官たちがスチールデスクで書類を見たり電話をしたりしている。そのうちの一人がシズナを見ると、名前を尋ねた。彼女が名乗ると、彼はすぐに机の前の空間に呼んだ。
「ずっと待っていましたよ。こちらに座ってください」
 刑事と机を挟んで座った。
「スィヤはどうしました?」
「仕事が忙しくて……」
 シズナは俯いた。
「店は休みでしょう?」
「ええ、スィヤは休日でも個人で絨毯の仕事の注文を受けていますから」
「あ、そう。相手の人はすごく怒ってるよ」
「すみません」
「あなたどうして彼をかばうの?」
 シズナは一瞬黙った。
「彼は仕事熱心ですから……」
「そうなの?」
 刑事は訝しげな目でシズナを見た。ノートに会話の内容を書き付けながら、スィヤとの出会い、関係、店の所在地、スィヤの電話番号、どのような経緯で車を貸したか、などを問うてくる。彼女は正直に答えた。
「結局あなたの車の管理責任に問題があったということですね」
 刑事は調書を書きながら、シズナを見た。
「え、ええ」
 シズナは目をしばたたいて言った。
「あぶないなあ、もし人身事故だったら、大変なことになっていますよ。もしドライバーが無免許で飲酒運転でもしていたら、どうします?」
 彼女は黙って俯いた。
「気をつけてくださいよ。後で相手の方からお宅に修理の請求書がいきます」
 シズナは唇を結んで何も言わなかった。
 私服の警察官たちがシズナの車の事故の証拠写真を何枚も撮った後、やっと彼女は車と共に解放された。
 大きな事故ではなかったことと一段落終わったことに胸を撫で下ろし、運転席に戻った。背もたれに頭をもたせてため息をついた。夕方近くになっていたが、昼食を食べていないのに胃が詰まっているような感じがして食欲がなかった。外はまだ明るかったが、雲で覆われ白い平面的な空が遠くまで続いていた。
 シズナはエンジンをかけて、粉塵で汚れた木造家屋の商店や学校のある道路に出た。遠くには住宅や畑が見える。川越街道を都心に向けて走りながら、スィヤは今頃モニカと一緒にいるのだろうか、と考えた。高速道路を使って帰りたかったが、給料が安かったので金を節約したかった。多くの人々が来店してくれるが、買ってくれる人は少なかった。<ペルシャ絨毯・シラーズ>と<グリスターン>を合わせると、売り上げはあるようだったが経営状況や収支の踏み込んだところまでは知らない。スィヤが<グリスターン>の店長とはいえ、コウカブが代表取締役であるし、その他に出資して経営に関わっている日本人がいるらしい。
 スィヤはあの三十万をどのようにして調達したのだろうか。店から借りたのかもしれない。
 シズナは店の内部事情や経営状態についてはよく知らなかった。だが、スィヤやコウカブやモジダバの、イランから絨毯や雑貨を輸入して売りたいという熱意は理解できたし共感していた。日本人が気軽に買える安い絨毯を輸入して、沢山の人に使って貰いたい、というスィヤの考えにも共感する。
 左右のウインドウの向こうに、雑木林や住宅や商店が続く。街灯やガソリンスタンドには照明が点いていた。白濁とした空に向かって林立している高層ビル街が遠くに見え始めた。だが走っても走っても高層ビル街との距離が縮まらない。排気ガスで汚れた背の低いビルやファミリーレストランが目の前を通り過ぎていく。同じ所をいつまでも走り続けているような気がした。


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