キャラバン夜想曲 page (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (10/10)

 スィヤの店は開店した。イランから輸入した商品を成田空港や支店の品川の店から運ぶ時は、アルバイトの若者が手伝いにきた。シズナは店のレジスター係を担当した。経理は、ユキコが一括してやっていた。前にも中近東雑貨キリム店の店員をしていたので要領はわかっていた。しかし扱うものがイランの商品なので、なるべくお客に付いて説明した方が良いのかどうか、シズナは迷った。このような狭い店内では、店員がそばに寄ってくるのを鬱陶しく感じる客もいるからだ。スィヤも店員をしたが、絨毯の取引のために外出していることが多かったので、モジダバから客への接し方を教わった。
 モジダバはスィヤがいかに絨毯の目利きが良いかをしばしばシズナに語った。スィヤはいい男、旦那になったら家族を大事にするよ。シズナは言う。スィヤは彼女がいるみたいよ。そうなの? 見たことないよ、スィヤは嫌いかい? 好きよ。どうして恋人じゃない? だって……。スィヤはよく働くし絨毯のいい悪いはすぐわかる、きっとお金持ちになるよ。モジダバとはそんな会話をしながら働いた。スィヤは夕方には店に戻り、閉店まで一緒に売り場で働いた。仕事が終わると、スィヤとシズナは彼女の車で帰宅した。
 ある日の深夜、二人はいつものように軽自動車に乗って古アパートのある駐車場に戻ると、街宣車が駐車してあるそばの樹木の暗い茂みに、肥満ともグラマラスともとれる女が立っていた。細かなカールのある金髪、ピンクがかった白い肌、少し上を向いている鼻が軽自動車のヘッドライトに照らされた。シズナは直感的にスィヤの恋人だとわかった。彼女は、軽自動車が徐行しながら入ってくるのを目で追い、助手席に乗っているシズナをじっくりと見た。スィヤは車を停止させて駐車ブレーキを上げながら低い声で言った。
「モニカだよ」
 モニカは暗がりの中の軽自動車とシズナをじっと見ている。スィヤがドアを開けて外に出たので、シズナも車から出た。
「あんただれ?」
 唐突にモニカが険のある目つきで訛の強い日本語で言った。シズナはスィヤを見た。彼はスペイン語でモニカに話しかけた。彼とモニカはスペイン語で言い合っていたが、彼女は気を取り直したらしく日本語で静かに言った。
「あたしモニカ、スィヤのこいびと」
「私はシズナ、スィヤの仕事を手伝ってる」
「OH、しごとだけ?」
 シズナは黙った。
「あんた、スィヤすき?」
 シズナは黙ってモニカを見ていた。
「あたしスィヤとけっこんする」
「そう、ご自由に」
「先に帰ってくれる? 僕たちはちょっとここにいるから」
 スィヤはシズナに言った。
「わかった」
 シズナはほっとして、車から離れていった。古アパートを横切り駐車場を出ていく途中で後を振り向いた。暗がりの奥に、モニカとスィヤが距離を置いて立っていた。スィヤはこちらに背を向けて、モニカに手振りで懸命に話をしている。モニカはずっとこちらを見ている。シズナは視線を無視して古アパートと倉庫に挟まれた出入り口に向かった。角を曲がって路地に出る時、ちらりとまたモニカを見る。しきりに手振りをしながら話しているスィヤの向こうから、モニカはシズナを窺っていた。
 シズナは急ぎ足で駐車場を出ていった。後を振り返ると、駐車場の出入り口にも路地にも人通りはない。角を曲がり、脇道に逸れ、回り道をしてマンションに帰った。

数日後の深夜、シズナの部屋の電話がけたまましく鳴った。受話器をとると、音楽や街の騒音が聞こえる。電波の雑音の中で、独特なアクセントのある外国人の下手な日本語が耳に入ってきた。
「OH、シズナさん。げんき? あたしモニカ」
「元気よ」
「ちょっとはなしある。これからあおう」
「何の話?」
「いま、はなしダメ。いいみせある。きて。スィヤにないしょ。だいじ、はなしある」
「何の話よ?」
「いま、はなしダメ。あたしシンジュクコマゲキジョウ、いる。シズナさん、まってる。おねがい、きて」
「どうかしたの?」
「いま、はなしダメ。あたしまってる。おねがい、きて。あたしおごる」
 モニカは自分の携帯の番号をシズナに教えると、あたしまってる、と言い残して切った。シズナは不安を感じたが、大事な話だと言うので、会うことにした。スィヤに関することだろうから、聞いておきたい。いつものキリムの手提げバッグを持ったが、財布からクレジットや金融機関のカード類や余分な現金を引き抜いて机にしまった。真夜中の新宿で変な店に連れ込まれ法外な金額を請求されたり危険な目にあっては困る。必要以上の金を持って行かない方が良い。モニカはスィヤの恋人だし、先ほどの口調から激しい憎しみや攻撃心は感じられなかったから、暴力的なことに巻き込まれることはないと思う。むしろ、シズナに願い求めているような口調だった。スィヤには内緒だと言っていたが、一体どうしたのだろうか。
 真夜中になると電車がなくなるので、自転車で行くことにした。深夜でほとんどの店は閉まっていたが、歌舞伎町の近くまで走らせると車や人通りが多く昼間のようにざわめいていた。クラブやバーの前では、バニーガールたちがサラリーマンを誘っていた。看板に<のぞき部屋>と書いてあり女の裸の写真があちこちに貼ってある店やSMプレイという蛍光色の看板を掲げた店が並んでいた。クラクションや音楽やゲームセンターなどの騒音の中、ホステスやゲイたちの嬌声、やくざ風の男の無骨な声などが聞こえる。白昼よりも賑やかだ。
 新宿コマ劇場の前に行くと、天然カールの金髪の太った女と、栗色のストレートの髪をした細身ではあるが乳房と尻の大きな女が立っていた。二人ともはち切れんばかりのタンクトップとジーンズを着け、腹を覗かせていた。金髪の方は、モニカだった。彼女は少し上を向いた鼻と下向きの歪んだ唇をしていたが、シズナを認めると、まるでずっと前からの友達であるかのように手を上げて笑った。シズナは困惑した。笑顔を返そうと思ったが、苦笑のようにしかならない。モニカは走り寄り大袈裟な笑顔を向けてシズナを抱いた。
「OH、シズナ、げんき?」
 シズナが戸惑っていると、栗色の髪の女も日本語で言った。
「あたし、ケリー。よろしく」
 ケリーはモニカと交代して、シズナの背中を抱いて頬にキスをした。シズナは少しびっくりしたが、そのままにしておいた。モニカは自分の腕をシズナの腕に回して言った。
「あたしたちおごる。あそこいこ」
 斜め前にある、通行人が気軽に立ち寄っているガラス張りのカウンター式バーを指差す。シズナはやけに馴れ馴れしいモニカに首を傾げながら、彼女たちに従いバーに入った。狭い店で、椅子は中央のカウンターにしかなく、ガラス窓に沿う長いテーブルでは男女が混み合って立ったままアルコールを飲んでいた。待ち合わせをしているのか、一人で飲んでいる人もあちこちにいる。
 ケリーは一人で飲んでいる若いスーツ姿のサラリーマンの男の隣に身体をねじ込むようにして入り、隣のカップルとの間を開けてモニカたちを呼んだ。モニカとシズナはその隙間に入った。モニカはケリーとスペイン語で喋った後、バーテンダーにコロナビールを三つ注文した。モニカはシズナに言った。
「だいじょうぶ。あたしおかねもってる。あたしおごる」
「話ってなあに? スィヤのこと?」
 シズナは単刀直入に言った。
「はなし、ない。いっしょにあそぶ」
 モニカは言う。
「話があるって言ったじゃないの」
「あとで」
 モニカは言った。後方からバーテンダーがやってきて、コロナビールを三つ持ってきた。
「きょう、あたしシズナとあそび、する。あなた、スィヤてつだう、やさしいひと」
 モニカはシズナのグラスにコロナビールを注ぎ自分のそれと乾杯をした。シズナは少し居心地が良くなった。まだ気は許せなかったものの、モニカの笑顔を見ていると、信用しても良い気持ちになってくる。ケリーは隣の若い男と顔を近づけて声を低めて話をしている。ケリーがモニカに小声でスペイン語で何か話すと、モニカは言った。
「ダンスすき?」
「ええ」
「コロンビアりょうり、あたしおごる」
 シズナは戸惑ったが、モニカはシズナの手を取って、いこう、と言う。モニカがケリーに耳打ちすると、ケリーは男にウィンクして何か言った。いつの間にかケリーと親しくなった彼が三人分のコロナビールの料金を払った。四人でバーを出ていった。日本人のサラリーマンの彼もケリーの後を従うように付いてくる。ケリーが、コロンビアりょうりのディスコ、いい? と聞くと、男は何でも良いらしく、ナイス、ナイス、レッツゴウ、と舐めるような視線をケリーの身体に走らせた。
 人々のざわめきや車の騒音や音楽などで賑やかな通りを歩いた。パチンコ店、ゲームセンター、飲食店、バー、クラブ、カジノ、性風俗の店などが並び、電気で発光する無数の看板が路上やビルの壁面に連なっている。
 ピンク色の長細い電灯に縁取られた店の入り口には、裸の女の写真が何枚も貼ってあり、呼び込みの男が性感マッサージと書いてある看板を手に持って通行人を誘っている。店やビルを飾る照明や街灯で街は明るく、幾種類もの音楽や人々の声や車の騒音が入り乱れ賑やかだ。スーツを着て黒い鞄を持った会社員たちやバービー人形の衣装を着けたホステスたちが路上で群れて高笑している。
 人混みの中を四人は歩いていった。脇道に入ると薄暗いホテル街があり、雑居ビルの地下への階段をモニカが指差した。
「ここラテンディスコ、コロンビアりょうりある」
 確かに、軽快なリズムのラテン音楽が聞こえてくる。階段の入り口には、ラティーノと書かれた小さな看板があり、色とりどりの電球が散りばめられ点滅していた。モニカとケリーはコンクリート階段を降りていき、男も後に従った。シズナも、クリスマスツリーに使われるような安価な豆電球が這わせてある壁や天井を見回しながら降りていった。
 木製の扉を開けると、サルサ音楽が大音量で聞こえた。入り口近くのバーカウンターにたむろしている外国人たちや、奥で酒をシェイクしている目つきの悪い日本人のバーテンダーやスタッフたちが、一斉にこちらを見た。ケリーは、岩のようにでこぼこした赤黒い肌をした太った中年男と、甲高い声を上げて声を掛け合った。男の顔には無数の小さな傷があり、小指を詰めていた。彼は連れの男とシズナをいぶかしげに見ながら、グラスに氷を入れ始める。連れのサラリーマンがシズナに話しかけた。
「彼女たちとどういう関係ですか?」
「男友達の彼女よ。こんな風に話すのは初めてよ。あなたは?」
「さっき知り合ったんですよ」
「ふうん」
「こっち」
 モニカが手招き、フロアの隅にあるテーブルに行こうと促した。店内は空いていて、テーブルは半分しか埋まっていなかった。フロアでも数人ぐらいしか踊っていない。そのほとんどはコロンビア人やイラン人などの外国人だった。コロンビア人のほとんどの女たちは、申し合わせたかのように、腹を出した短いタンクトップ、肌にぴったりと張り付いたジーンズ、厚底のサンダルという格好をして、前後に尻を激しく振りながら胴をくねらせて踊っている。
 幾種類もの打楽器とピアノが素早いリズムを刻む中、彼女たちは肉厚の尻を空気に打ち付けるように振り、うっとりとした顔をする。まるでセックスのような動きと仕草で踊る。先ほどコロナをおごってくれた連れの男は、彼女たちの揺れる豊満な乳房や分厚く盛り上がった尻に見とれていた。
「Hi、ケンジ」
 テーブルを陣取ったケリーが、サルサのリズムに合わせ胸を突き出して乳房を揺すった。ケンジはにやけてサルサとは似ても似つかないステップで、ケリーの隣に座った。テーブルを挟んでモニカとシズナが座った。すぐに日本人のフロア係がやってきて注文を取った。ケリーは慣れた口調でテキーラ、コロナ、コロンビアーナ、ピカダ、パタコンなどと、酒やコロンビア料理を次々と注文した。フロア係の男はすぐに酒を持ってきた。
 ケンジは、どの辺に住んでいるのか、電話番号を教えてくれと、ケリーに拙い英語で尋ねている。ケリーはモニカと顔を見合わせながら、あとで、とウィンクをして、彼に酒を勧めた。ケンジがテキーラをロックで飲み干すと、すぐにケリーが注いだ。ケンジは一人で何杯も飲んだ。モニカはグラスに氷を入れテキーラを注いでシズナの前に置いて言った。
「あたしぜんぶおごる。のんで」
 シズナは、モニカがなぜ自分をもてなすのかわからなかったので、落ち着いて飲む気にはなれなかった。モニカは言う。
「おさけきらい?」
「別に」
 後方から、コロンビア料理が運ばれてきた。フライドポテト、アボガド、トマト、カッテージチーズ、ジャガイモ、ソーセージ、肉などが炒めてある料理が大皿に盛ってある。
「おいしいよ、たべて」
 モニカはフォークにソーセージを刺して、シズナの口に持ってくる。シズナは口で受け止めるのが嫌だったのでフォークを手で受け取った。モニカはシズナの様子をじっと窺っている。シズナはソーセージを口に入れた。モニカは微笑んだ。ケリーもケンジと話をしながら、シズナが食べるのを見ていた。ケリーは彼との会話を中断して尋ねた。
「おいしい?」
「う、うん」
 ただのソーセージだったが、彼女たちの気遣いを感じて少しうなずいた。モニカは、もっとたべて、と次々とアボガドやチキンなどをフォークに刺してはシズナに持たせようとする。モニカはフロア係の男を呼んでエンパナーダスとかアロスサルタドなどとスペイン語で追加注文する。モニカはシズナに言った
「コロンビアりょうり、おいしい、いっぱいたべて」
 ケリーは目の周りが真っ赤になったケンジのグラスにテキーラを注いだ。
「あんたもいっぱいたべて」
 ケンジは細かくうなずいてバナナのフライやジャガイモを頬張った。
「ケンジ、おねがい」
ケリーは言い始めた。
「あたしのおねえさん、コロンビアいる。おねえさん、ニホンにきたい。おねえさんとけっこんして」
 ケンジはきょとんとした。彼は拙い英語で話していたが、日本語で話し始めた。
「おねえさんがどんな人か知らないのに、結婚できないよ」
「ひゃくまんえん、だす」
 とケリーは言う。
「あたし、ひゃくまんえんだす、あなた、かみおくる」
 ケンジは偽装結婚のことだと悟って、シズナをちらりと見た。シズナは視線を落とした。ケンジは話題を変えて言った。
「踊ろうよ。遊びに来たんだぜ」
 ケリーは肩を落として、モニカを見た。彼女たちは真剣な顔をしてスペイン語で何やら話し合っていた。ケリーはため息をついた後、こちらに笑顔を向けて上半身を左右に動かし谷間の見える大きな乳房を揺らして言った。
「おどろう、ケンジ」
 ケンジは口笛をふいた。彼らは中央のダンスフロアに行って踊り始めた。ケリーは腰をぐるぐる回しながら片手を上げてステップを踏む。リズミカルなコンガやボンゴの音に、ティンバレスのリムショットが入る。ケンジはケリーの腰を眺めながら小刻みにスキップするような踊りをした。ケリーはグルーブを効かせて体幹を動かし、両手でリズムをとり尻を打ち付けるように前後に弾ませる。
 ケンジはにやにやしながら、プリンのように揺れ動く乳房や尻を眺めた。ケリーはぴっちりと身体に張り付いたタンクトップとジーンズを着ているので裸を簡単に想像させる。彼女は裸のウエストをくねらせ尻を激しく振り、唇を半開きしてエクスタシーを感じているかのような表情をした。彼も腰を動かしながらケリーの手を取る。
 ケリーが一回転すると、ケンジは彼女を支えるかのように両手で裸のウエストを抱えた。二人は両手をつないで踊りケリーは何度も回転する。その度にケンジは、彼女のウエストや乳房をしきりに触った。
 シズナはモニカの薦めるテキーラには口をつけないで、コロンビアーナという清涼飲料水を飲んだ。サルサのリズムが鳴っている中、モニカはシズナを見つめて尋ねた。
「スィヤすき?」
 シズナはコロンビアーナをうまく飲み込めないで目を瞬いた。
「スィヤと、こいびとなりたい?」
 モニカはシズナの目を覗く。
「どうして?」
 シズナは問い返した。
「あたし、スィヤとけっこんする」
 モニカがこちらをまっすぐに見てはっきりとした口調で言ったので、シズナは狼狽えた。シズナ、とモニカが呼びかける。
「だから、スィヤとこいびとなる、だめ」
 彼女は頭を振ってシズナを睨んだ。青い大きな瞳がシズナを食い入るように見つめている。フロアで、ケンジと踊っているケリーもこちらを見ている。
「あなた、しごとてつだう、それだけ、いいね」
 モニカが念を押した。はい、わかりました、と彼女たちに従うのがシズナには癪だった。
「そんなこと、わからないわ」
 シズナは言った。モニカの頬がすぐに引きつった。
「あたし、スィヤのこいびと。だから、ニホンいる。もしスィヤ、あたしいらない、あたしコロンビアかえる」
 シズナは黙った。
「あたし、スィヤのため、ニホンいる」
 モニカはテキーラの入っているグラスにコロンビアーナを注いで飲んだ。腑に落ちないシズナは言った。
「スィヤはあんたと結婚したいって?」
 モニカはグラスから口を離して言った。
「もちろん。スィヤ、あたしをすき」
 シズナは横目でモニカを見て言った。
「スィヤはずっと日本で仕事をしたいのよ」
「しってる」
「あんた、日本にずっといるつもり?」
「たぶん……わかんない」
 モニカはコロンビアーナの瓶口に挿してあるレモンを取ってグラスに絞った。いくつもの太鼓やパーカッションの音が賑やかに鳴る。トランペットやトロンボーンの音が伸びやかに音域を行き来する。
 ケリーとケンジがテーブルに戻ってきた。ケンジは上気した顔でソファにふんぞり、ワイシャツの胸の辺りのボタンを外し両端を持ってぱたぱたと靡かせ風を入れた。テーブルに置いてあった、グラスに入っている氷の溶けたテキーラを一気に飲み干してケリーに聞く。
「どこに住んでるの?」
「オオクボ」
「オオクボのどこ?」
 ケリーは鼻の両脇に微笑の皺を寄せて、ケンジにウィンクをした。テーブルの端に置いてある請求書を手に取ってケンジに見せた。ケリーは先ほどのフロア係の男に目で合図をした。彼はテーブルにやってきて、ケンジに三万円だと言った。目の周りを赤くして上機嫌に酔っ払っていたケンジだったが、一瞬生真面目な目つきになった。シズナは自分の飲み代をケンジに支払ってもらうのも変だと思ったので、私のはいくら? と尋ねてバッグを持った。モニカはシズナを差し止めて言った。
「シズナ、あたしたち、おごる」
 ケリーも真面目な顔でシズナを見てうなずく。ケリーはケンジに向かって請求書を手渡し、くびれたウエストをよじって笑いかけた。ケンジはにやりとして、財布の中から紙幣を取り出してフロア係の男につかませた。モニカはシズナに念を押した。
「スィヤのこいびと、あたし。OK?」
「わかったわよ。私はスィヤの仕事を手伝ってるだけよ」
「そう。あなた、やさしい」
 モニカはシズナに笑いかけた。
「いっしょ、おどろう」
 モニカは立ち上がってシズナの手を引っ張った。モニカは厚底のサンダルの重みで不自然な歩き方をしながらフロアに入った。彼女は太ってはいたが、慣れた足取りでステップを踏み、腰を左右に動かしながら両手を滑らかに回す。シズナも両足を交互に踏みながら腰を動かした。後からケリーが呼ぶ。
「シズナ、もっと、むね、はって」
 と胸を突きだし上半身を左右に揺する。
「こうなの?」
 シズナも胸を張って両手と肩を柔らかく動かした。コンガ、ティンバレス、ボンガの複雑に重なった打楽器の音、鍵盤を素早く行き来するピアノの高音、パーカッションの小気味よい音、陽気な男女のスペイン語のコーラスが聞こえる。
 ♪サルサに国境なんてない。踊って、楽しんで。一緒に踊ると気分が晴れる。私たちは愛し合っている。代償のない愛。サルサのリズムが響くと心が燃える♪
 シズナは踊り疲れて、ソファに戻った。ケリーはケンジと下手な日本語と英語が入り交じった冗談を言い合っていたが、シズナを見るとこちらに顔を向けて、ダンスじょうず、と大袈裟に目を大きくした。モニカもシズナの隣に座った。シズナは黙ってコロンビアーナを飲んた。モニカは言う。
「シズナ、もっとあかるいかおして」
「コロンビア人、あかるい、すき。ポジティヴすき。もっとむね、はって」
 ケリーは背筋を伸ばし大きくて柔らかそうな乳房を前に押し出す。シズナは黙って水を飲んだ。もっと陽気になりたかったしダンスも好きだったが、明け方まで彼らと飲んだり踊ったりするつもりはなかったので言った。
「そろそろ帰るわ、ごちそうさま。スィヤはあなたのもの」
 モニカは微笑んだ。シズナはバッグを手に持った。
「いっしょ、かえる」
 モニカは言う。ケンジと話をしている最中のケリーも、モニカを見て、あたしも、と言った。
「ゆっくりしていけばいいじゃない」
 シズナは言うと、モニカはシズナに耳打ちをした。
「おそくなったらスィヤおこる。ケリーもイラン人のこいびといる」
「そうなの。でもケリーは楽しそう」
「あかるい、たのしいがいいよ。」
 ケリーはサルサの音楽に合わせ、指を二、三本立てた両手をスイングさせ、両肩を交互に上げる。
「でも、ともだち、だけ」
 とケリーは、ソファにぐったりと横たわっているケンジをちらりと見て、シズナに顔を寄せて耳打ちをする。酔っ払っているケンジはソファの背にもたれて目を閉じたままリズムに合わせて唸っていた。
「私は帰るから、ゆっくり楽しんで」
 シズナはキリムの手提げバッグを持って、席を立った。モニカが立ち上がるとケリーも立った。ケンジは顔の筋肉を緩ませて寝そべっていたが、ケリーたちが去っていく気配を感じ取って目を覚ました。シズナがフロアから出口の階段に向かって歩いていくと、モニカとケリーが後を追ってきた。ケンジも鞄を持って身を起こし、よろよろとケリーの後を付いていく。
 店の外に出て、繁華街の通りに入ると相変わらず賑やかだった。発光する色とりどりの看板や電球が無数にあり、チラシを配る呼び込みの男や、女の裸のポスターを貼った看板を首に下げた男が立っていた。道行く女を物色する男たちやカップルが行き来している。
 舞台衣装を着たゲイたちが店から出て、客のサラリーマン風の男やOLたちをあしらっていた。ゲームセンターの前でシズナは立ち止まり、モニカとケリーを振り返った。彼女たちはシズナに寄ってきた。後からケンジが怠そうに歩いてくる。シズナは言った。
「私は自転車で帰るわ。モニカたちはどうする?」
「スィヤむかえ、くる。スィヤ、あたしをすき」
「あ、そう」
 気分を害したシズナは、早く帰ろうと自転車の鍵を解いた。モニカは携帯を取り出してプッシュする。しばらく呼び出し音が鳴った後にスィヤが出て、モニカはスペイン語で話し始めた。カブキチョウ、と彼女は辺りのビルを見回しながら場所を説明している。ケリーはケンジに手を振った。
「バイバイ」
「なんだと」
 怒ったケンジは、ケリーのウエストに手を回して抱き寄せた。ケリーは背中を弓のように反らして、もうおわり、と言う。彼は舌打ちをして、口をタコの吸盤のようにすぼめてケリーの顔を追った。
 彼女は顔をしかめて横に向けたが、ケンジの唇は彼女の頬に命中し、吸い込む音が鳴った。ケリーが頬を手で拭っていると、スィヤと話しているモニカの口調が急に刺々しくなり、声を張り上げて争い始めた。モニカは携帯を離し、険しい顔でケリーにスペイン語で耳打ちした。ケリーは、ケンジの唇が頬に押しつけられるままにして、モニカと小声で囁き合った。モニカは通話を切ると、シズナに言った。
「シズナ、イエどこ?」
「どうして?」
「スィヤおこってる」
「知らないわよ」
「かえるオカネない」
 シズナは黙った。モニカは俯き加減でシズナに寄ってくる。ケリーも、加勢の良くなったケンジの吸着攻撃を受けながら、シズナを見ている。シズナはしぶしぶ、自分が飲食した酒と料理のおよその小銭をモニカに手渡した。
「ありがとう」
 モニカは受け取った。
「こんどウチきて、コロンビアピラフつくる、いっぱいたべて、スィヤ、ピラフすき」
「ああそう」
 モニカとスィヤが仲良くピラフを食べている姿を想像して不快になった。
「さよなら」
 シズナは自転車に乗った。電話番号は、と聞くケンジの声やスペイン語訛のある英語で番号を発音するケリーの声を後に、シズナは自転車をこいで帰路を急いだ。
 両側にラブホテルが建ち並ぶ暗い通りを走って自転車のスピードを落とした。地面に両足を着けて後を振り返った。バーやクラブやゲームセンターを彩る電気の光と喧噪が入り乱れる中、モニカが紙切れに何かを書いてケンジに手渡しているのが見えた。片腕にケリーを抱いているケンジはにやにやしながら紙切れを胸ポケットに収め、モニカも引き寄せ肉付きの良いピンクの頬にブチュと吸いついた。
 モニカがこちらを振り向いてシズナを認めると、すぐにケンジから身体を離した。彼女はケリーに耳打ちする。ケンジは相変わらずケリーのうなじを舐めようと舌を出して追いかけていたが、ケリーも振り返りシズナを見た。彼女たちはケンジを促すようにして、通りの角の雑居ビルの向こうに隠れてしまった。
シズナは自転車をこいで、ラブホテル街を走った。城を模した白亜の洋館を、下品なピンク色のライトが下方から照らし出していた。LOVEという字形の青い蛍光灯が屋上で光っている。武家屋敷を模した木造家屋の玄関の石碑には、ご休憩、ご宿泊、という値段表が刻み込まれている。地味なスーツに黒い鞄を持った真面目そうなサラリーマンの男とジーンズのミニスカートにTシャツを着た女子高生と思われる若い女が入っていく。生ぬるい風が頬を切った。見上げると、竜宮城のような建物が夜空を塞いでいて、看板の楽園ホテルという文字が紫色の光を放っていた。
 自転車を走らせていると、コールタールのような夜空が見えてきたが、星はなかった。月はどちらの方角に出ているのかわからなかったが、この界隈を抜けるべく懸命に自転車をこいだ。月は出ているのだろうか、もしかしたら消滅してしまったかもしれないと不安になった。シズナは夜空を見ながらペダルを踏んだ。煉瓦作り風のホテルと、エクセレントラブという文字が光る看板を掲げたホテルとの隙間に、やっと月が見えた。
赤い月だった。シズナは目を落とした。極彩色の電光がちかちかする迷路のような路地を早く抜け出したかった。両足に力を込め急いでペダルを回転させた。
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