キャラバン夜想曲 page (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (/10) (10/10)

 翌朝、品川の店に行くために、シズナはパーキングでスィヤを待った。ドラム缶のそばに、スィヤのバイクが停めてあった。彼はこのパーキングまで、バイクで来るのだ。スィヤは早朝からパジェロに乗って絨毯などの荷物を取引先の店に運んでいるが、約束の時間になっても戻ってこない。
 シズナはじっと道路を見つめていた。痺れを切らした頃に、スィヤのパジェロが帰ってきた。駐車場に入り、古アパートを横切って樹木の所で曲がり、バイクとクレーン車との間のスペースに車を停めた。
 焦げ臭い匂いがしていた。スィヤはドアを開けて外に出た。ボンネットと車体との隙間から細い煙が立ち上がっている。煙は薄くなり消えたが、オイルの匂いが漂っていた。シズナが屈んで車体の下を見ると、地面にオイルの滴が落ちている。
「こんな車乗りたくない」
「こんな車じゃないよ。いい車なんだ」
 エンジンが冷えるのを待ってから、彼は車のボンネットを開けた。エンジンルームを見回すと、周囲のパイプはつぎはぎだらけで、ワイヤーやゴムで留めてあり、濡れて黒光りしていた。スィヤは油圧計の金属棒を引き抜き、眉をひそめて舌打ちをした。オイルが下限をかなり過ぎて減っている。屈んでエンジンルームを点検しているスィヤの背中に向かってシズナは言った。
「修理しても、もう乗らないわよ。もし事故を起こしたらどうするの。危ないわ」
「修理したら直るんだよ」
「もう絶対乗らないわ」
 スィヤは彼女の顔を見上げた。
「それじゃ仕事ができないじゃないか」
 スィヤは慌ただしくトランクの中から工具セットとオイルの入ったプラスティック容器を取り出してきた。彼が軍手をつけ修理しようとするのでシズナは言った。
「新しい車を買えばいいじゃないの」
「そんなお金ないよ」と彼は弱々しく言う。
「どうして? お店が買ってくれるよ」
「だめなんだよ。予算が足りないから」
「お店の車を借りようよ」
「ダメだよ。モジダバが使ってるんだ。修理して、僕一人で行って来るよ」
「この車に乗るのはやめて。弟から車を返してもらってくるから、私の車を使えば良いじゃないの」
「本当?」
 スィヤは彼女を見つめた。彼女は弟に携帯で連絡を取って言った。
「車を返してくれるって。だからもうそんな車乗らないで」
「わかったよ……」
「もう廃車にして」
「う、うん」
 スィヤは軍手をつけた両手をだらりと下げて彼女を見た。着古したシャツと染みのあるパンツをはいて、頼りなげにこちらを見ている。
「午後には戻ってくるわ」
 シズナはパーキングを出ようとした。
「途中までバイクで送って行くよ」
 スィヤは車の後部座席からヘルメットを取り出してシズナに手渡した。彼はドラム缶のそばに停めてあるバイクのところに行き、ヘルメットを被りシートにまたがった。彼はエンジンをかけて、どうぞ、と彼女を促す。シズナはスィヤの後の空いているシートを見て、漠然と不安を感じた。スィヤの顔に陰が落ちた。
「怖いんだったら、いいよ」とエンジンを止めた。
「バイクは壊れていない?」
「壊れてないよ。大丈夫だよ」
「そうよね。大丈夫よね。運転長いものね」
 彼女は念を押した。
「十年乗ってるよ」
 彼は言った。シズナはヘルメットをかぶった。シートに乗りスィヤの背中に掴まる。彼はバイクを発進させた。車道に出ると、風を切って自動車の脇を走った。道路を曲がるたびに車体が地面に傾く。初めてバイクに乗ったシズナは、スィヤの胴体に掴まっている両手に力を込めた。横を走っている大型トラックがバイクに接近してくる。トラックの助手席に乗っている男がこちらを見て指を差し、隣りに座っている相手と何かを言い合い笑った。スィヤは速度を上げて前方の乗用車の横へいく。シズナは彼にしがみついたまま目を閉じた。安っぽいシャンプーの香りがした。スィヤを後ろから抱きかかえているのに違和感はなかった。駅の近くで彼はスピードを落とした。駅前で停まると、シズナはバイクを降りて言った。
「一緒に来て」
「これからお店で仕事があるんだ」
 彼は手を上げて別れの合図をし、バイクを発進させた。彼女も手を振って、彼を見送った。

 シズナの軽自動車が道路の脇に停めてあった。スーツ姿の弟が運転席に座って待っている。シズナが助手席に座ると、車はもういらないよ、と車のキーを渡した。
「マイホームを買いたいから貯金したいんだ。車は金かかるから返そうと思ってたんだ。ちょうど良かった」
「マイホームですって。結婚でもするの?」
「まさか、そんな相手いないよ」
「そうなの? 彼女とドライブしたいから車貸してって言ってたじゃないの」
「もう卒業したよ。車よりマンションが良いよ。男はマンションを持っていないと結婚できねえよ」
「あんた、女にもてたいからマイホーム買うの?」
「そういうわけじゃないけど、将来のためにさ。姉ちゃんは仕事の方はどうだい? 母ちゃんがいろいろ俺に聞くんだよ。シズナは自分からは何も話さないからって」
「仕事変わったのよ。今度は面白そうよ」
「へえ、どんな仕事?」
「ペルシャ絨毯のお店よ。この車、仕事で使うの」
「お店どこにあるの?」
 シズナが<グリスターン>の所在地を言うと、まあ頑張れよ、俺はこれから仕事の約束があるから、とアタッシュケースを手に持ち地下鉄の駅の方向に消えていった。
 シズナは車を運転して古アパートのある駐車場へ戻ってきた。パジェロの後に接近して停めた。車を二台停めていたら管理人に叱られる。スィヤに電話をしたら、すぐに来ると言う。
 陽が落ちて、駐車場の出入り口から街宣車の方まで西日が届いていた。倉庫の裏側と隣接する側は一日中陽が当たることはない。ブロック塀には苔が付着し、クレーン車の周りには雑草が伸び放題に生えていて、じめじめとしている。地面に区分けのために敷いてあるロープは泥まみれになり土との区別がつかなくなっていた。手入れのされていない空き地だが、余所より半額以下のパーキング代なのだから仕方がない。廃材で作ったような古アパートは少し傾斜していて、一階のガラス窓はひび割れ埃がこびりつき磨ガラスのようになっていた。二階の窓にはくすんだ茶色のカーテンがかかっている。右翼の街宣車があるわりには、静かで人気がない。過激集団が出入りしている様子もない。だが、アパートの板の壁に、政党を罵倒する文句が書いてある紙が二、三枚貼ってあった。
 バイクの音がしてきたので、パーキングの出入り口の方に行った。スィヤの乗ったバイクが駐車場に入ってきて、ドラム缶の近くに駐まった。ヘルメットを外しながら、彼はシズナを見た。彼女は微笑んだ。彼の顔も緩んでいた。
「軽自動車じゃ小さいかもね」
「これで助かるよ。グリスターンが儲かったら大きい車を買うんだ。それまで貸してください。保険料と駐車場の賃料は俺が払うから」
「うん」
 シズナの気分が明るくなった。スィヤも笑った。彼は車体に触れながら言った。
「いい車だぜ」
 シズナは嬉しくなった。彼はさっそく運転席に乗り込むとあちこちを点検し始めた。エンジンスイッチに入っているキーを回すと、すぐにエンジンがかかった。彼は威勢良く言った。
「さあ、シナガワに荷物取りに行くぜ!」
「いいよ!」
 彼女は助手席に乗った。彼は自分のセカンドバッグの中からカセットを取り出し、カセットプレーヤのテープ挿入口に差し込んだ。聞こえてきたのは、時代を何千年も遡った古代の土の街から流れてくるような撥弦楽器の音色だった。弾き出される弦の音の隙間から葦の笛の素朴な音と息が静かに響いてくる。続いて皮張りの太鼓を手で打つ音が鳴る。ふと、いつか習ったことのあるペルシャ語の本に載っていた土色のキャラバンサライの跡を思い出した。
「素敵な音ね」
 シズナはボリュームを上げた。音質は悪かったが、葦笛を鳴らす息吹の音が心地良かった。スィヤは、撥弦楽器がタール、葦笛がネイ、太鼓がトンバクとダフという伝統的な楽器だと説明する。男のペルシャ語の歌声が聞こえてくる。
 ♪美と人柄と誠実さでは誰もわが恋人には及ばない。どんな親友も誠意あるわが恋人には及ばない……老いても私をしっかり抱いてくれ。私は若返って起き上がる♪
 スィヤは音楽に合わせて上機嫌に口ずさみながら、車を走らせた。駐車場を出て、古アパートや金網で囲まれた藪のある空き地を通り過ぎ表通りに出た。夕方とはいえ、空はまだ明るく人通りも多い。飲食店やコンビニエンスストアや書店が並ぶ商店街の歩道では、学生服を着た生徒たちがたむろしてパンやハンバーガーを食べていた。交通は渋滞していて、バイクや自転車が停滞ぎみの車を追い越していく。
 シズナがスィヤの横顔を見ると、彼もシズナを見て笑った。前方の車の速度に合わせて徐行しながら、彼は音楽に合わせてペルシャ語で歌う。
 ♪恋人を見なくては薔薇も美しくない。知性や芸術も恋人の姿がなければ楽しくない……心が安らぎ麗しい恋人を持つ人はみんな、スィヤわせになる、幸運がやってくる♪
「お腹空いた?」
 スィヤが聞く。
「うん、少し」
「途中で何か食べよう。何食べたい?」
「ペルシャ料理」
「シナガワのお店の近くにあるよ。そこで食べよう」
「うん」
シズナは楽しくなって歌い始めた。タール、ネイ、トンバク、ダフの音が一斉に賑やかに鳴っていた。ペルシャ語の歌声に合わせて適当に歌う。
 品川の繁華街の一角に、ペルシャ料理レストランはあった。夜になっていて沢山の電気の看板が輝いていた。カラフルな絵や文字が動いたり点滅したりしている。<ペルシャ料理>という日本語の電気の文字が掲げてあるレストランの前に車を停めた。煉瓦造り風の建物で、厨房がガラスの扉から見える。前掛けをしたイラン人がキャバブを焼いていた。
 スィヤに付いて店の中に入っていった。スィヤはレジスターにいた店員のイラン人とペルシャ語で挨拶を交わした。木製のテーブルにつくと、店員が水を持ってやってきた。彼女はアーブグーシュト、スィヤはキャバブをオーダーした。野菜や豆や肉を煮込んだ料理とスープのセットがシズナの前に運ばれてきた。彼女は煮込んだ料理を潰して食べるのをどこかで聞いたことがあったのでそうした。スィヤは彼女の潰し方に耐えかねたのか、ちょっと貸して、と受け取ると慣れた手つきで潰してペースト状にした。彼はシズナに聞く。
「他に何食べたい?」
「サラダ」
 彼は店員を呼んでサラダとザクロジュースを二つずつ頼んだ。
 二人はそれぞれの料理を分け合って食べた。彼はシズナの家族についてや将来は何をしたいかを尋ねてきた。弟と両親がいて、自分は中近東の織物や雑貨を扱うお店の仕事をしたいと言うと、彼は上機嫌にいろいろ尋ねてきた。
「弟は、車が使えなくなって困るんじゃない?」
「ぜんぜん」
「ご両親はお店について何か言ってる?」
「まだ親に言ってないの」
「そうっか……」
 スィヤは少し俯いた。シズナはキャバブやナンを沢山食べた。
「シナガワのお店に到着するのが遅くなるといけないね」
「連絡してあるから、安心してゆっくり食べてください、僕のおごりです」
 彼は改まった口調で言った。食べ終わると、二人分の料金をスィヤが支払った。外に出ると涼しい風が吹いてくる。
「気持ちいい」
 シズナは空を仰いだ。けばけばしい電光を放つ看板が上方のビルの壁に連なっている。その上に夜空が見えた。
「星が出てるよ」
 シズナが喜ぶと、彼は言う。
「東京の星は小さいよ」
 シズナは少しがっかりした。二人は車に乗り品川の店に向かった。
 店はもう閉まっていたが、裏口から入ると日本人の社員が事務室にいた。スィヤは挨拶をして、隣りの倉庫に行った。シズナも後をついていった。棚に段ボールが積んであり、壁には紙で包んで巻いてあるロール状の絨毯やキリムが沢山立て掛けてある。
「いっぱいあるのね。こんなに車に積めないわ」
「うん、今日ぜんぶ運ぶのは無理だよ。また来るよ」
 彼らは段ボールやロール状の絨毯を運んで、軽自動車のトランクに詰めた。スィヤの店にも手伝いに来る予定があるアルバイトの日本人の青年も荷物を運んでくれた。トランクも後部座席もすぐに満杯になった。アルバイトの青年や事務室にいる社員に挨拶をして店を出た。軽自動車の運転席にスィヤが、助手席にはシズナが乗った。
 深夜だったが、人も車も多い活気のある都心の道路を走った。外灯が規則的に並ぶ高速道路が、ビルの谷間を大きくうねって遠方に消えている。ビルの壁面には明るいガラス窓が並び、エレクトロニックと書かれた大きな看板があった。内部はサイコロ状の形をした電気の集まりで、一斉に回転しては赤や青に変わり、文字と背景の色が入れ替わっていた。向かいのビルの壁面には巨大な映像のスクリーンがあり、レオタードを着たダンサーたちがポップス音楽に合わせてみんな同じ動きで踊っている。
二人はお金を節約するために、高速道路を使わないで一般道路を通って帰った。まだスィヤが使う店名義の車はないし、シズナの給料もどのぐらいになるのかわからないのだ。
 <グリスターン>に到着し荷物を奥の部屋に運んだ後、スィヤはシズナの前に立って言った。
「今日はありがとう。新しい車を買うまで、貸してくださいね。お礼にこれをプレゼントします」
 彼は奥の部屋の隅に立て掛けてあった一枚のキリムを店の方に担いできた。
「いいのよ、気にしなくて」
 と躊躇っていると、スィヤはキリムを畳んで紙袋に入れ軽自動車まで運んだ。シズナは目を瞬いて見ていると、スィヤは言った。
「記念だよ。ずっと持っていてね」
「わかった。キリムは大好きよ。大事にするわ」
「明日もシナガワに荷物取りに行って、その後は、知り合いが中古の絨毯を売りたいって言うから査定に行くんだ。スペアキーを貸してくれる?」
「うん、いいよ」
 シズナは車のキーを彼に手渡した。
「明日も一緒に来てくれる?」
「いいよ。喜んで」
 彼女の胸は弾んだ。車の助手席に乗りキリムの入った紙袋を両手に持ち、スィヤを待った。彼は店の戸締まりをして運転席に入り、帰宅するために古アパートのある駐車場に向かった。
 古アパートと倉庫に挟まれた出入り口を徐行して入り、いつものようにドラム缶とクレーン車の間のスペースに停めた。後方の古アパートの二階の窓は暗い。静かで人気がなかった。ブロック塀の向こうに倉庫の歪んだ鉄板の屋根と木の影が見える。夜空は綿を薄く伸ばしたような雲で覆われていた。スィヤがエンジンを切ると、彼のズボンのポケットから携帯の音が聞こえてきた。彼はペルシャ語で電話に出たが、スペイン語で話し始めた。通話を切って、セカンドバッグを手に持って忙しなく言った。
「家に帰るから。今日はどうもありがとう」
「こちらこそ」
 月光でぼんやりと照らし出されたスィヤの横顔を見た。睫の長い瞳がじっと前方を見ていた。鼻が高くて口元が引き締まっている。がっしりとした顎の隆起も精悍だった。
 彼のズボンのポケットから携帯の着信音がまた聞こえてきた。
「もう帰るから」と彼は携帯に出ないで、車のドアを開けて降りた。彼女も車から出て彼の後方に回った。彼はドアの鍵穴にキーを差し込みロックする。
「毎日頑張っているのね」
 シズナはスィヤの髪に触れた。
「じゃあね。彼女が待ってるんだ」
 彼はシズナに触られるのを避けるように離れてバイクのところに行き、ヘルメットを被った。エンジンをかけてシートに乗り、足を地面につきながらこちらに徐行してきて言った。
「また明日」
 シズナは少し不服そうな顔でうなずいた。スィヤを乗せたバイクは、土やコンクリート片が剥き出しになっているでこぼこの地面で上下に揺れながら、古アパートを横切り駐車場を出ていった。シズナはキリムの入った紙袋を抱えて、か細い月光に照らされた夜道を歩き、蔦の這うマンションに帰っていった。一階のアリの部屋の風呂場の小さな窓は真っ暗で、辺りは静かだった。足音をたてずにコンクリートの階段を昇っていった。

 <グリスターン>の内装は、見違えるほど変わった。汚れた黄土色の壁はえんじ色に変わり、桟や柱には薔薇の絵の壁紙を貼った。木製の古びた扉はすっかり緑色に塗られて透けて見える木目が素朴さを醸し出していた。リサイクルショップで買った細長い机を壁に沿って並べ、更紗のテーブルクロスを掛けた。中央には楕円形のテーブルを置いてイラン製のレースのクロスを掛けた。ところどころに煉瓦を積んで観葉植物を置く。
 彼らは店の奥の部屋にいき品川から運んできた段ボールを開け、ロール状の絨毯やキリムを包んである紙や紐を解いた。シズナは段ボールからアクセサリー類や置物を取り出した。彼らは売り場に行って何をどのテーブルに置くかを話し合った。スィヤはキリムのバッグや敷物を壁に掛け、革ひもを窓際にめぐらせ銀製品や石のネックレスを沢山吊した。彼女はテーブルに大理石の置物や水パイプを置く。
「素敵なお店になるわ」
「うん」
 彼は笑みを浮かべ、小さな絨毯を壁に掛け始めた。シズナは彼の後ろ姿を見た。ストレートのパンツを穿いていたが痩せた足腰には大きすぎてぶかぶかだった。首や肩に筋肉の隆起はあるが華奢で少年のような体型だ。格好良いとは言えなかったが、微笑ましかった。
 彼と一緒に暮らしたらどんな生活になるのだろう、と想像してみる。彼は家で掃除や整理整頓など身の回りのこともするのだろうか。だが、彼女と一緒に暮らしていることを思い出すと少し憂鬱になる。
「彼女のこと、好きなの?」
「まあね」
「結婚するの?」
「まさか」
 彼は素っ気なく言って、脚立に両足をかけ、骨董品の古時計を柱に取り付けた。シズナは彼女との関係についてもっと知りたかったが、彼は黙って工具でフックのネジを留めている。シズナも黙って、彼の後ろ姿を見ていた。
 夜も更けて店の前の人通りが少なくなった頃、スィヤの携帯が鳴った。彼はスペイン語で話し始めた。シズナは動きを止めて彼を見つめた。話が終わって通話を切るとスィヤは何事もなかったように薔薇の絵が描いてある金属製の箱を床に積んだ。シズナも細密画が施してある木製の小箱をテーブルに並べた。またスィヤの携帯が鳴る。シズナは彼を見た。彼はスペイン語でまくし立てている。女のヒステリックな声が送話口からする。スィヤは話し終わって通話を切り、また作業を続けた。
「彼女?」
「うん」
 スィヤは金属製の箱を積み上げた。二人で段ボール箱を片づけていると、またスィヤの携帯が鳴った。彼はスペイン語で説得させるように手振りをしながら話している。シズナは床に落ちている紐や段ボールや屑などを拾った。開いた段ボール箱に入っている、金、銀、銅、真鍮のレリーフについてスィヤに尋ねようとすると、静かに、と彼は必死に両手を振り回した。送話口の向こうから女の怒鳴り声がする。シズナは黙って店内を片づけた。スィヤは通話を切って、ため息をついた。シズナは言った。
「そろそろ帰るわ」
「あ、うん」
「また明日ね。もうすぐ開店するんだから早く来てね」
 彼女はスィヤの片手を取った。
「わかった。応援してるわよ」
 シズナは彼の肩に触れて、唇を彼の頬に近づけた。スィヤは顔を後方へ反らした。
「どうして? ほっぺたにキッスするだけじゃない」
「だめだよ」
 スィヤは後へ引き下がった。
「彼女が可哀想じゃないか」
 シズナは軽い衝撃を受けた。が、平静を装って言った。
「彼女を好き?」
「うん」
「本当に好き?」
「うん」
 またスィヤの携帯が鳴った。彼はスペイン語で応対した。大きな声を張り上げて、繰り返し主張している。シズナは掃除用具を片付け、洋服についた埃を払い帰り支度をした。彼は送話口を手で覆って、シズナに囁く。
「ちょっと待って」
 彼女は立ち止まった。スィヤは話し終えて通話を切ると、彼女の方へ歩きながら言った。
「送っていくよ。夜の道は危ないから」
「結構よ、まだ電車はあるもの。また明日ね」
 彼女はキリムの手提げバッグを持ち、スィヤを振り切って店を出ていった。

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