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【ストーリー】
突然解雇されたシズナ。新宿の公園で、絨毯商人のイラン人スィヤに出会う。シズナはスィヤの店で働くことになり、親しくなるが……。東京・新宿を舞台に、日本人、イラン人、コロンビア人の三角関係を織りこみ、外国人問題を問う小説。

      キャラバン夜想曲                                         松直伽

 高層ビルのメタリックな尖塔が、薄靄がかかっている夜空を貫いていた。ビルは闇の奥に沈んでいて、輪郭に沿ってところどころ付いている赤いライトと、碁盤の目のように並ぶ窓だけが明るい。SF映画に出てくる張りぼてのようなビルだ、とシズナは思う。ビルの谷間を、アドバルーンのマンボウがゆっくりと泳いでいる。その近くを、ライトを点けたヘリコプターが旋回している。マンボウとヘリコプターがぶつかってしまうのではないかとシズナは不安になった。マンボウは風に乗ってゆっくりと移動し、ヘリコプターから遠ざかっていく。
 夜空には星も月も見あたらない。だがコンクリートや金属やプラスティックやガラスで埋め尽くされた街は、無数の宝石をばらまいたような人工光で夕暮のように明るい。人々が休む間もなく活動していて、粉塵やガスが立ち上がり、黒い空に薄いピンクの靄がかかっている。
 シズナは足のまめの痛みをこらえてびっこをひきながら繁華街にある公園に入っていった。バー、クラブ、ゲームセンター、カジノの入り口では極彩色の電球が点滅していたり、電気の文字が移動しながら色鮮やかな光を放っている。ラブホテル、飲食店、コンビニエンスストア、街灯などで公園内はぼんやりと明るい。石のベンチには新聞で身体を覆った浮浪者が寝ていたり、相手のいないゲイの男が座って通行人の男を目で追っていた。男同士のカップルが顔を近づけひそひそと会話をしている。
 シズナは誰も座っていない石のベンチにへたり込んだ。スーツなんて脱いでしまいたい、パンプスも脱いで大の字に寝転がりたい、だが、向こうのベンチにいる浮浪者や男たちの視線を感じて居心地が悪くなった。ごみ入れの大きな金網の缶からは残飯や新聞や空き缶などが溢れていて、浮浪者がゆっくりとした動作であさっている。彼はシズナの方に虚ろな目を向けると、のろりと上体を起こしこちらに歩き出してきた。シズナはベンチから立ち上がり、池の方に行った。池のそばには雑木があり、水面には枝葉や空き缶や新聞やチラシなどが浮いている。どんよりと濁っていて生臭い。その周りを小さな虫が飛んでいた。
 公園に接した道路の方を見る。外国人の痩せた男が街灯の下で自動車のタイヤ交換していた。ジャッキで車体を上げて長細いレンチでナットを締める手慣れた動きを見ると、素人ではないようだ。タイヤを直した後、工具用品の入っている金属の箱から別の工具を取り出しエンジンルームをのぞいている。道路の向こうから仲間の太った外国人がプラスティックのボトルとビニール袋を持ってやってきた。痩せた男は仲間から手渡されたボトルを脇に置いてエンジンルーム内をいじった。彼はいろいろな工具やワイヤーやゴム製品を使って、懸命に修理をしている。太っている方の男がビニール袋を持って、池の方にやってきた。彼はちらりとシズナに目をやった後、ベンチに座ってビニール袋から弁当を取り出した。彼は大声で自動車を修理している仲間の男に話しかけた。シズナが大学のサークルで習ったことのあるペルシャ語だった。
 太った男は脂肪がついていたが筋肉質だった。口の周りに髭を生やしタックのついたズボンをはいている姿は、東京で見かける他のイラン人と変わらない。ベンチの上に二人分の弁当とコーラを置いて、割り箸を割っている。彼は大盛りのご飯と焼き肉を口に掻き込んでは、自動車を修理している仲間の男を見ていた。
 修理をしていた男が作業を終えてこちらにやってきた。痩せているがやはり筋肉質で、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちをしていた。頑健な体つきだが、華奢で顎の線が細い。長い髪を後頭部で一つに束ねて、首にトルコ石のネックレスをつけ綿のベストをボタンを外して着ていた。その下から生成りの丸首の長いシャツがはみ出して見える。黒の細身のジーンズをはいていて、他のイラン人とは違う服装のセンスだった。シズナは彼の持つ雰囲気をかっこいいと思って見つめた。そばで見ると、思ったより背が高かった。彼はシズナが見ているのに気づき、警戒しているような、だが好奇心が入り混じった目で見た。鳶色の純朴そうな瞳がためらいもなくこちらを見ているので、彼女は目を逸らした。
 彼はベンチに座って弁当を開き食べ始めた。彼らは口を動かしながらペルシャ語で話をしている。大まかな意味を聞き取ることができた。郊外にある自動車修理工場にいって修理の見積もりをしてもらったのだが、高額で支払えないため修理をあきらめて帰宅している途中に、スィヤの車のパンクとオイル漏れに見舞われた。タイヤを交換しホースをワイヤーで留めて応急処置をしたが、また壊れるに違いない。今度解体屋で中古パーツを仕入れて自分たちで修理しよう。そんな会話だった。
 スィヤと呼ばれる痩せた男が話しながら、ちらりとこちらを見た。シズナはまた目を逸らして池の手摺りにもたれた。彼らが、もう買い換えの時期だとか、いや修理を繰り返せば十分乗れるなどと、車の話をしているのが聞こえる。シズナは道路と公園の間のスペースに駐車してある黒いパジェロを見た。ジャッキや輪止めなどの工具は収めてあった。古ぼけた車だが、フロントガラスに検査標章のマークが見える。
 また壊れて乗れなくなったら友達の車を安く買おう、とペルシャ語で話し合っている声が聞こえてくる。シズナは彼らを盗み見た。
 モジと呼ばれる太った男がシズナを振り返った。彼とまともに視線がぶつかってシズナは瞬きをした。彼が、こんばんは、と日本語で言うと、シズナは小声で、こんばんは、と返して下を向いた。
 たぶん出稼ぎで来日した不法就労のイラン人だろう。彼女は、あまり彼らと関わらないように、と自分に言い聞かせた。上目遣いでスィヤを見ると、人間味のある優しそうな瞳がこちらを向いていた。だが、骨格のしっかりとした精悍な顔立ちを見ると、腕力では完全に負けてしまうことがわかる。本能的に怖さを感じる。
 スィヤが慣れた日本語で話しかけた。彼の表情からは、日本人への卑屈さや構えは感じられない。日本に適応して生活しているのだろう。
「人待ってるんですか?」
「いいえ」
「この公園、あぶないところだよ」
「どうして?」
「みんな悪いこと……」
 スィヤが言いかけると、モジは両手を左右に振って、大きな声だめだよ、と日本語で言う。
「大丈夫よ」
 シズナは忘れかかったペルシャ語でモジに言った。彼らは驚いた顔をした。スィヤは日本語で言った。
「ペルシャ語できる?」
「ええ、少し勉強したの」
 シズナは片言のペルシャ語で言った。モジはビニール袋から、開けていないコーラ缶を取り出して差し出した。モタチェッケラム、とシズナは受け取った。スィヤはペルシャ語で話し始めた。
「俺スィヤ。こいつモジダバ。君は?」
「シズナ」
「ここで何してるの?」
「疲れたから休んでたの」
「ここに立っている人はみんな売春してるんだよ」
 とスィヤ。
「よく知ってるね」
「スィヤは日本に来て長いんだ」
 モジダバが焼き肉とご飯を口に掻き込みながら言う。スィヤはうなずいてコーラのプルトップを開けて飲んだ。浅黒い皮膚の下で喉仏が上下に動いた。シズナもコーラのプルトップを開けて飲み始めた。シズナはスィヤに言った。
「あなたの車?」
「そうだよ」
「修理できるの?」
「もちろん」
「スィヤは運転も修理もすごくじょうずなんだ」
 モジダバが言う。スィヤが照れ笑いをした。シズナはスィヤの顔を見た。先ほどは体格の良い頑健な男だと思ったが、華奢で純粋な少年のようにも見える。
「イランにいた頃、車の修理の仕事していたことあるよ」
「へえ」
 スィヤはセカンドバッグから大きい手帳を取り出して、二種類の免許証をシズナに見せた。日本の免許証とイランの免許証だった。
「両方ともテストは一回でパスしたよ。子供の頃からお父さんの車を運転してたんだ」
 モジがうなずいている。
「子供が運転していいの?」
「いけないけど、お父さんの前に座って運転を見てたんだ。高校卒業したらすぐに免許取ったよ」
「へえ、嬉しかったでしょう」
 スィヤは笑ってうなずいて、手帳に挟んであった写真を見せた。色褪せた白黒写真だが、旧型の古びた乗用車の前で髭を生やした中年男と少年のスィヤが映っている。
「でも、お父さんは死んだんだ」
 彼は世間話をするように言った。急に告げられた過去の悲しい出来事にシズナは目を瞬いて黙った。
「どうぞ、食べてください。まだ手をつけてないんだ」
 スィヤがビニール袋に入った菓子パンをすすめた。
「ありがとう。でもお腹空いてないから」
 彼女は菓子パンを受け取ったが食べないでコーラを飲んだ。彼女はスィヤを見ていた。彼は箸を器用に使い鳥の唐揚げやご飯を口に掻き込んでいる。モジがキャベツの千切りを口に入れて咀嚼しながら言った。
「これから俺たちとドライブしようよ」
 シズナはたじろいでコーラを飲むのを止めた。スィヤは笑って言った。
「冗談ですよ。お父さんお母さんが心配するんでしょう」
「両親はここにはいないけど」
「一人暮らし?」
 スィヤが尋ねた。シズナはどう答えて良いか迷った。よく知らない外国人の男に一人暮らしだと言いにくかった。彼女が困っていると、モジダバが言った。
「彼氏と住んでるの?」
 彼らは返事を待っていた。シズナは躊躇した。つき合っている男の人はいたが、恋人と呼べるかどうかわからない。しかし恋人がいると言えば、こちらにあまり踏み込まれないので安全だという気がした。
「ま、まあ、そんなとこ」
 スィヤとモジダバは沈黙した。
「ペルシャ語よく話すね。彼氏イラン人なの?」
 スィヤが聞いた。
「ううん」
彼女は首を横に振った。
「今度彼氏と別れたら、俺とつき合わないかい」
 モジダバが言う。シズナは身を引いて、コーラ缶から口を離した。スィヤが声を立てて笑った。
「もう行かなくっちゃ」
 シズナは飲み終わったコーラ缶とハンドバッグを持ち直した。
「途中まで送っていきますよ」
 スィヤが日本語で言った。
「え?」
少しためらってスィヤを見つめた。途中までという言い方と邪気のない表情は自然だった。
「スィヤの車で?」
「そうだよ」
「そんな悪いわよ」
「だいじょうぶだよ」
 スィヤは立ち上がって食べ終わった弁当などをビニール袋に入れた。続いてモジダバも片づけ始める。スィヤはポケットからエンジンのキーを取り出して、さあ、行こう、と歩きだした。
「運転なら誰にも負けないよ。事故なんて一度もない」
「本当?」
「スィヤは俺の車の先生さ」
 モジダバが言う。
 黒いパジェロを近くで見ると、艶がなく窪んでいたり傷ついていたりしている。モジダバはスィヤに促されて後部座席に乗った。スィヤは運転席に座って、助手席の手動のロックを外した。車内は密室なので一瞬ためらいを感じたが、リラックスして計器類を触っているスィヤを見ると気持ちが落ち着いた。
 彼女は助手席に乗り込んだ。マニュアル操作のギアーで計器類も指針式で単純だった。足下のゴムシートは砂石で汚れている。オイルや機械類の匂いがした。運転席に座ったスィヤはエンジンをかけようとするが、なかなかかからない。
「いつもなんだ」
 何度もエンジンキーを回した後、ようやくエンジンがかかった。ウィンカーを出して発進する。エンジン音と振動が車内に伝わってきた。ゆっくりと走りながら公園を通りすぎる。スィヤはたずねた。
「アパートはどこ?」
 シズナは家の在処を教えたくなかった。彼氏がいると答えたものの一人暮らしだったので、知り合ったばかりの男に住所を教える気にはなれない。今こうして一緒に安心して車に乗っていられるのが不思議なぐらいだった。
「東外苑通りへ出てまっすぐに行って左に曲がって右に曲がって突き当たりで降ろしてちょうだい。ここからは遠くないの。あなたたちはどの辺に帰るの?」
「帰るところはないけど、同じ道だよ」
「アパートないの?」
「よく引っ越すんですよ。いつも友達と一緒に住んでるんですけど、本当は一人で暮らしたい。この車が自分の家みたい」
「古いけど乗り心地は良いわ」
 スィヤはシズナを振り向いて笑った。
「そうでしょう。エンジンもバッテリーもタイヤも解体屋で拾ってきて、俺が全部修理したんだ」
「本当? 大丈夫かしら」
「車検ではOKでしたよ」
 フロントガラスの上部に貼ってある検査標章のマークの有効期限はあと半年だった。開いた窓から絶えず大きなエンジン音と風が入ってくる。車内はエンジンで細かく振動していた。
「オーディオも、新しい型に取り替えたんだ。店で買ったらすごく高いやつですよ。聞いてみる?」
 彼は上機嫌でカセットステレオのスイッチを押した。旧型のシンプルな計器類にはそぐわない重厚な感じのものだった。CDシステムはないが、これで十分なのだろう。カセットボックスにはペルシャ語で書かれたカセットばかりが入っている。日本人のミュージシャンのカセットも少しはあった。
 ペルシャ音楽が聞こえてくる。イランの伝統的な楽器である葦笛と撥弦楽器と太鼓のアンサンブルの曲だった。リズミカルだが哀愁のあるメロディーで、祈りのような男の声が鳴り響く。後方からも音がした。シズナは後を振り向いた。モジダバがリズムに合わせて身体を揺らしている。彼の後の両側に小さなスピーカーの陰があり、重低音の効いた音が響いてくる。シズナも嬉しくなった。
「いい音ね」
 スィヤは運転しながら彼女の方を向いた。
「そうでしょう」
 車はシズナが言った通りの道順を走っていった。高層ビル街や繁華街から離れて住宅のある早稲田の商店街に入った。深夜は人通りが少なく静かだった。シャッターの降りた店やスーパーや学校が、暗がりの中にひっそりと並んでいる。明かりといえばラーメン屋やコンビニエンスストアや街灯ぐらいのものだった。車は片側二車線の広々とした道路をスムーズに走る。彼は右折や左折を繰り返し、道路の名前を呟きながら運転している。
「東京に慣れているのね」
「八年前に東京に来ました」
「やっぱりね。日本人みたいに話すもの」
「ありがとう」
 スィヤは嬉しそうにシズナを見た。
「日本語学校に行ったの?」
「ええ、読み書きもできますよ。そこに教科書とノートが入ってるけど、見る?」
「うん」
 シズナは彼が目で示したグローブボックスを開けた。地図類やバインダーなどが入っていた。バインダーを取り出すと、ノートが挟まっている。ノートを開けると、ミミズが這うようなペルシャ語と日本語の単語がずらりと書いてあった。自作の単語集だった。
「スィヤの?」
「そうだよ。もうすぐ店を開くんです。ずっと日本で商売をするつもりなんです。だから勉強しているんです」
「へえ、何を売るつもりなの?」
「イランの絨毯や雑貨です」
彼は運転しながら笑顔でシズナを見た。自動車は右折して人通りのない暗い商店街を通過した。
「アパートはどこ?」スィヤは運転しながら訊いた。
「近くよ。ここで降ろしてちょうだい」
「あ、うん」
 彼はウィンカーを出して、自動車を道路脇に寄せて停めた。
「ありがとう。楽しかったわ」
 シズナはスィヤと後部座席にいるモジダバに言った。スィヤは微笑んだ。彼女はノートをバインダーに挟みグローブボックスに収めた。ハンドバッグを手に持ち、さようなら、とドアを開けた。夜気の涼しい風が入ってきた。このまま外に出ていけば、もう彼らと会うことはないだろう。両足を地面につき前屈みになって出ていこうとした。
「ちょっと待って」
 スィヤが声をかけた。振り向くと、彼は何かを紙に書きつけて、それをシズナに差し出した。
「気が向いたら電話してくださいね」
 シズナは微笑して紙を受け取った。ハンドバッグの中にしまって外に出た。深夜で人通りはほとんどない。街灯と、閉まった商店の並びの先にあるコンビニエンスストアの明かりだけが道路を照らしていた。スィヤは身を乗り出し助手席の開いたウィンドウに顔を近づけて言った。
「気をつけてね」
「ええ、スィヤもモジダバも」
 シズナは歩道で彼らを見送った。スィヤは小さく警笛器を鳴らして、発進させた。後部のドアガラスからモジダバがシズナに向かって片手を上げるのが見える。彼女もモジダバと運転席のスィヤの後ろ姿に手を振った。
 暗い道路に遠ざかっていくパジェロの後ろ姿を見つめた。深夜の広々とした道路を、悠々と走っていく。やがて緩やかな坂を降りて、消えていった。
 交通のない暗い道路に、間隔を置いて立っている信号機が一斉に緑から黄になる。閉まった書店のショウウィンドウに展示された本を眺めながら歩いていき、十字路の所まで来ると辺りを見回した。
 通行人はなく、道路を走る車もない。道を曲がり脇道に逸れて街灯のない暗がりの路地をいく。古く汚れた低層マンション、波状のプラスティック板を壁に巻きつけた木造家屋、波状鉄板とブロックで作った倉庫、建築中止になって骨組みだけがある空き地が続く。
 さらに脇道に入ると、左側にモルタル塗りの壁とトタン屋根でできている木造家屋、右側にブロック塀があり、突き当たりに蔦で覆われた古い三階建てのマンションが姿を現した。ここの二階にシズナは住んでいた。外壁一面に蔦が這い、コンクリートの階段や廊下も老朽化していたが、家賃が安いのが気に入って借りていた。この界隈には外国人や労働者や学生が多く住んでいた。

 シズナはパンプスを乱暴に脱いで、ショルダーバッグを放った。スーツを脱ぎ捨てTシャツと短パンに着替え、六畳一間のカーペットの上に寝転がった。ため息をついて窓ガラスの向こうを見る。
 イギリスの高級ブランドを扱うブティックの社長の見下したような顔が浮かぶ。あのね、うちは経験者しか取らないんだよ、と子供をなだめるような口調で言われた。前にアジア・中近東の輸入雑貨店に勤めていたと言っても、鼻であしらわれただけだった。不愉快だった。ポールスミスのオーデコロンとポマードの匂いが漂ってきて吐き気がした。店員は糊がついているようなぱりっとした白いシャツに紺色のスカートを着て立ち回っている。あんな服、着たくない、とシズナは心の中で呟く。扱っている洋服もありふれたデザインで地味な色の無地やチェック柄が多かった。素材も仕立ても良くて値段の高い洋服だったが、彼女の趣味ではなかった。
 お客さんはあの洋服のどこが良くてお金を払っていくのだろう。シズナには理解できなかったが、今まで面接を受けたブティックの中では高級店で最も給料が多かった。
 本当は、中近東のキリムや絨毯や雑貨を扱っている店で働きたい。特に、糸を草木で染めて途方もない時間をかけて緻密な文様を織り出した織物に惹かれていた。しかしいくら探しても、働き手を募集している中近東の織物を扱う店はなかった。そのためアルバイトを募集している洋服や雑貨関係の店を探しているが、気に入った所はなかった。
 この不況の時代に気に入った職場を見つけるのは難しい。いずれ気に入らない職場でも働かざるを得ない時がくるのだろうか。憂鬱になってしまう。
 天井の黒い染みをぼんやり見ていると、扉をノックする音が聞こえた。
「誰?」
「俺だよ、俺」
 コウスケの声だった。扉を開けると、安いスーツを着て仕事用の黒い鞄を提げたコウスケがよろりと入ってきた。真っ赤な顔をして目が座っていた。酒の匂いをぷんぷんさせながらシズナに抱きついてくる。彼女は彼の腕から逃げるように身体を離した。
「どうしたの? こんなに夜遅く、べろんべろんに酔って」
「うひぃーっぷ、同僚と飲み会があって……うひぃーっぷ……疲れちまった」
 コウスケは玄関に倒れかかった。
「大丈夫?」
 シズナは両手でコウスケの上体を起こした。彼は酒の匂いを吐きながら、シズナの身体に手を回した。
「もう」
 彼女は身体を捻ったが、コウスケの両手に捕まえられていた。彼は唇をすぼめて突き出してきた。
「チュウして」
「やだよ」
「どうして、彼氏だろ」
 シズナは一瞬黙った。
「元気になったのなら自分のマンションに帰って寝た方がいいのに。明日仕事でしょう?」
「なんだって。シズナに会いに来たんだよ。恋人じゃないか」
「もう遅いから」
「さあ、やろう」
 コウスケはシズナを部屋に引っ張っていき、上着を脱いで、ズボンも脱いだ。シズナには、シャツの下から見えるすね毛の生えた太い両足や張り出しているお腹が滑稽に見えた。彼はさっさと服を脱いでシズナを押し倒した。
「相変わらずマグロだよな」
 彼は横たわっているだけのシズナの短パンを脱がし始めた。
「今度にしようよ」
「我慢できない」
「もう……これ付けてくれる?」
 シズナはベニヤ製のチェストの引き出しからコンドームを取り出し、袋を破って中身を渡した。彼は装着してまた彼女の身体の上に乗った。
「痛いよ」
 シズナは、はやく終わらせるために抵抗せずにそのままにしておいた。行為は終わり、コウスケは使用済みコンドームをティッシュにくるんで、ごみ箱に投げ捨てた。彼はパンツを穿き、二、三度シズナの髪を撫でるとすぐに眠りに落ちた。
 彼女は静かに起き上がり風呂場に行った。シャワーを浴びて体を洗いながら思う。コウスケとセックスしてもつまらない。つき合い始めた頃は、セックスの時に興奮していた。でも最近は、裸になって性器を擦り合わせることに飽きてきた。
 風呂場から上がってコウスケを見つめる。
 コウスケは大の字になって熟睡していた。彼とは、三年前に自己啓発セミナーで知り合った。費用のかかる胡散臭い講座は嫌いだったが、三日間の無料お試し講座だったので行ってみた。グループになって初対面の人たちと自分について語るワークショップだった。
 同じグループだったコウスケはまだ学生で痩せていて、アロハシャツに短パンを穿いてリュックサックを背負っていた。髭を生やし日焼けした旅行者のような顔で、将来は小説家になりたいと言い、サリンジャーについて喋っていた。
 コウスケはきっと芯のある人だと思い、ワークショップの講座が終了した後も電話で話をするようになり、いつの間にかつき合うようになっていた。
 年上のシズナは大学を卒業していたが、就職もできずにアルバイトを転々としながら、大学のサークルで勉強したペルシャ語を生かせる商売が良いと考え始めていた。前に勤めていた中近東雑貨キリム店を知ったのもその頃だ。働いてみるとトルコの商品が多くて、ペルシャ語を話す機会がなかったことと絨毯を扱っていなかったのが少し不満だったが、他の職種よりはましだった。
 やがてコウスケも卒業し、これといって就職したい職場はなかったが、生計を立てるために予備校に就職した。
彼は仕事は嫌だと言いながらも勤勉に働いている。仕事もなくぶらぶらしている自分と比べると、安定した仕事に就いていると思う。酒と食事の量が増えて太ってきたが、悪い人ではない。女っ気もなく、結婚したら家庭を大事にする人だろう。シズナは彼の寝顔を眺めながら、部屋の隅にあった毛布をコウスケに掛けた。スチールハンガーに掛けていた敷き布団と毛布を物音を立てないで敷き、電気を消して布団の中にもぐり込んだ。
シズナは眠れなかった。仕事がなかったら困ってしまう。家賃の安いアパートを借りていたため、まだ働かなくても食べるに困ることはなかったが、いつまでも無職でいることはできない。コウスケは時々、シズナの仕事が見つからなかったら、どちらか一方のマンションを引き払って一緒に暮らそう、と言っていた。
 規則的に響く彼の鼾を聞きながら、一緒に暮らすことはしたくない、と目をつぶった。
 翌朝、まだ薄暗い時に物音がして目が覚めた。目を閉じたままうつらうつらしていると、コウスケが洋服を着ている気配がした。起きようとしたが、深い闇から浮き上がれずに、まどろみの中にいた。厚い靄のかかった意識の向こうで、玄関の扉が開閉する音がかすかに聞こえる。シズナはまた眠り込んだ。
 部屋の温度が上昇してきて寝苦しくなってきた。目を覚ますと、日差しがカーテンを透かして部屋を明るく照らしていた。
 カーテンを開けて顔を洗い、敷き布団に座ってパンと牛乳を食べながらテレビを見た。地球の異常気象についての番組をやっていた。地球温暖化が進み例年より海面が上がっているらしい。このままでは、砂漠化が進み氷原や氷床が減少し、将来予想もつかないような深刻な事態が出てくるだろうとニュースキャスターは言っている。
 株の暴落の話題になった。大手の金融機関がつぶれたのが影響しているのではないか、と解説している。ここのところ、銀行や証券会社の経営破綻が続き、金融危機を招くのではないかと捲し立てていた。
リストラで解雇されたのは不本意だった。鏡に向かって髪をといていると、前に働いていた仕事場の店長の険しい顔がまざまざと思い出される。お店を減らすから今月で辞めてもらえますか、と突然に最後の給料を手渡された。彼女はアルバイトだったが、もし正社員だったら首を切られなかったはずだ。社長には、経営状態が良くなったらまた手伝ってもらいたいので連絡します、と言われた。
 社長が連絡して来ないだろうかと思いながら、電話を見る。
 田舎にいる両親には、失業してしまったことはまだ言っていない。心配させたくないという思いもあったが、何かと言えばすぐに田舎に帰れと口うるさいからだ。シズナは田舎に帰りたくなかった。異文化に触れる商売を、活気ある都会でやりたかった。
 どこかで自分の趣味に合う店が仕事の募集をしていないだろうか。毛布と敷き布団をスチールハンガーに掛け、今日も職を探すべくスーツに着替えた。
 部屋を出て、コンクリートの階段を降りていった。一階の部屋の扉が開いて、一人の外国人が出てきた。数ヶ月前から住んでいるイラン人の男で、シズナを見ると上目遣いでうなずいた。彼女もうなずいた。彼は体格が大きく、彫りが深い顔に髭を生やしているせいで怖い感じを与えたが、頼りなげにも見える。話をしたことはなかったが悪人ではない気がした。黙って一階の廊下を通り過ぎて、路地を歩いた。途中で後を振り向くと、その男はこちらを見ていた。
 彼女は背中を向けて、ブロック塀とモルタル塗りの家屋に挟まれた路地を歩いていった。

 雑貨店やブティックなどのショウウィンドウにアルバイトや正社員募集のチラシが貼ってあるのを見つけては、店に入って雰囲気を窺ったり店員と話をしたりしたが好みの店はなかった。自分の趣味とかけ離れたセンスの洋服や物を売るのは、きっと疲れることだろう。シズナは街中を歩き回って、働く意欲が自然と湧いてくる職場がないことにがっかりした。
 部屋に戻り、スーツを脱いで短パンとTシャツに着替えていると、電話が鳴った。コウスケからだった。
「面接どうだった?」
「うまくいかなくって……。そのブティックに置いてある服、ぜんぜん好きじゃないわ」
「そうっか、今時自分に合った職場なんてなかなか見つからないよ」
「そうね。小説の方はどう?」
「どうして?」
「前に小説家になりたいって言ってなかった?」
「まあね。小説家になっても食えそうにないしな。今時小説なんて流行らないし。あーあ、明日も仕事だよ」
 コウスケは深いため息をついた。
「なんだかつまんないわね」
「え?」
「しょうがないから仕事してるって感じね。就職したんでしょう?」
「そうだよ。フリーターなんて不安定でやっていけねえよ。シズナみたいに仕事がなくなったら困るもん」
 シズナは一瞬黙った。
「やりたい仕事がなかなか見つからないのよ。天職が欲しいな」
「そうだね。俺も塾辞めようかな、っていつも思うんだ。教えるの好きじゃないし。塾で生徒に一流大学合格目指して勉強させてさ、何のためかなって、教師の自分でもわかんないよ。受験競争に加担しているだけさ」
「向いてないんじゃない?」
 コウスケは一瞬黙った。
「まあそうかもな。だからってやめたら生活できないじゃん。それに他の仕事に比べればマシなんだよ。会社に入ったらもっと大変だよ。同僚に気を使って上司にぺこぺこして、利益を上げないと首を切られちゃうんだって、保険会社に就職した友達が言ってたよ」
「でもさ、コウスケみたいに教えながら何のためかなって、感じてるんじゃしょうがないわよね」
「仕事があるだけましさ。天職なんて探していたらいつまでたっても就職できねえよ。シズナこそこれからどうするんだよ」
「私も……このままだと、向いていない所で働くことになるわ」
「俺と一緒に暮らさないか。家賃が半分になるよ」
「ありがとう、でもどうして私と暮らしたいの?」
「そりゃあ……好きだからさ」
「好きって、私の何を?」
 コウスケはしばらく黙っていた。
「そ、そんなこと言われたってわかんないけど……シズナと一緒にいたらなんだか落ち着けるよ。エッチもしたいし」
「そう……ありがと」
 シズナは眠くなり、別れを言って受話器を置いた。
 また明日街を歩いてみよう。疲労で瞼が重くなってくる。布団に横たわっただけで、身体が沈み込むように感じた。いつの間にか眠りの淵に滑り落ちていった。

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