2006年11月20日(月)「いじめをなくす方法」

 世間では、いじめの問題がたびたび話題になっている。いじめというと、小・中・高校生の問題として取り上げられがちだが、この問題は大人の生き方が反映されたものだと思う。
 日本社会でも、エリートや権力層の方が有利にできていて(悪いことをしても罪を問われることは少なく、それどころかさらに裕福になっていく)、貧乏層、障害者、老人、フリーター、ニートなど社会的弱者がその犠牲となっている。
 このように世の中は、大人が大人をいじめる社会構造があって、国際社会でも、強国が弱国をいじめるという構造がある。アメリカがイラクの沢山の人々を殺しても、それに異議を唱える日本人は少ない。アメリカが北朝鮮やイランの核開発を非難しても、「アメリカも核開発しているのだから悪いじゃないか」という日本人はいない。
 日本の大人も、アメリカのいじめに一斉に加担し、イラク叩きや北朝鮮叩きを応援している。
 日本の大人も子供もみんな、弱い者いじめのメンタリティを持って生きている。
 大人もいじめに加担しているのに、子供に向かって「いじめは悪いことだよ」と教えても、その場のがれに終わるだろう。
 本当にいじめをなくしたいなら、不公正がまかり通っている理不尽な日本社会や国際社会、自分の中にあるいじめ心に対して、大人が闘っていかねばならないだろう。
 いじめを本当になくす方法は、大人が自分たちの生き方を変えることだ。
 一人一人が公正な社会にしていく努力をしていかなければ、子供のいじめを本気で怒ることはできない。


2006年10月8日(日)「正しい生き方なんてない。世の中はサバイバル」

 雨宮処凜の本だったか、「世の中、正しい生き方なんてない」という意味の言葉を読んで、とても共感した。
 私は、世の中はサバイバルだと思う。空からいくつも大きな砲弾が降っていて、それをよけながら前へ前へと生きている感じ。世の中、生きるために、あまり良くないことをしたり理不尽なことや悪に染まらざるを得ない人もいるだろう。
 「正しい生き方はちゃんとあって、人間は正しく生きるべきだ」と言う人は、きっと恵まれた環境の中で生きてきた人か、世間知らずの人か、正しいことのためには死ねる特異な人だろう。
  安倍政権になって、これからはますます弱肉強食がすすみ、弱者はますます不利になっていくように思う。
 いくら、国民が安倍政権に福祉や年金や介護など社会保障制度の安定化を望んでも、国は大借金をしているわけで、しかもこれから憲法改正して、軍事に税金を注ごうとしているのだから、社会保障制度の安定化は無理だと思う(財政破綻してもおかしくない)。

 ベンジャミンフルフォードの本によると、「老人ホームを訪れたところ、一人一人に使われる予算が決まっているので、お年寄りが肺炎になってもわざと治療しないで放置しているので亡くなってしまう。治療すればもっと長く生きれるのに。老人ホームが姨捨山になりつつある」と書いてあった。
 これからは、姨捨山のような老人ホームも増えていくと思う。

 関連性のある生き方や、正しい生き方をしようとしたら、貧乏になったり、社会不適応になったりするだろう。
 そんなのはゴメンだ。一度しかない人生、健康なうちに悔いのないように楽しまなければ損だ。
 そのためには、バランスの良い食事に気を配ったり、運動して筋力を鍛えたりして、老人になって惨めな思いをしないように、今から努力しなくてはいけないだろう。お金も稼いで、貯めなければ。お金がなかったらいろいろ困ることが多いからね。
 織物や編み物はどうでもよくなった。こういうものはとても楽しいけど、正直楽しいだけ。お婆さんになってからやれば良い(今はちょっとずつ)。今は今しかできないことをやりたいものだ。そのうちの一つが読書をして世の中を知ること、もう一つは書くこと。その他、勉強や旅行など。


2006年10月3日(火)「『われわれ自身のなかのヒトラー』マックス・ピカート著(みすず書房)/現代の人々」

 安倍晋三が自民党総裁になった。安倍晋三の支持率は高く、特に女性で高いらしい。安倍晋三も政策について曖昧なところを残したまま、普通の人々もよくわからないまま支持して、論理やまっとうなことが通じない不気味な力に流されるように首相になった。
 『われわれ自身のなかのヒトラー』という、スイスの哲学者が書いた本を思い出す。現代人の意味の喪失についてくわしく書いてあった。今の状況ととても通じており、ヒトラーが出現する社会の前段階として次のような意味のことが書いてあった。

「テレビ、ラジオ、新聞などは、雑多な関連性を喪失した世界を作っていて、これが我々の心に大きな影響を及ぼしている。大都会は関連性喪失それ自体のための具体的表現である。…多くのナチスの殺人者たちは殺人者のような顔をしていない。一切が関連性を喪失して、装置化されてしまっている。数々の犯罪や残虐行為もナチスという巨大な生産装置の一部門に過ぎなかったのだ。…言葉はすでに対象に貼り付けられるレッテルに過ぎなくなっていた。ヒムラーがバッハ演奏者であったり残虐行為を指揮したハイドリヒがモーツァルトを聴いて涙することは不思議ではないのだ。殺人とモーツァルト、ガス室と演奏会場、それが平気で並んでいるのだ。それは関連性を喪失しているからだ。…誰もが無目的にどこへでもつるつると滑っていく。」
「テレビ、ラジオ、新聞などは、単に無関連的でバラバラというだけにとどまらず、関連のない世界を製造している。もろもろの事物がはじめからお互いに関連しないように、次々に忘れ去られていくように事物を製造する。こうしたバラバラの外部世界は、はじめから人間の内部の無関連性、非連続性、にねらいをつけて作業計画を立てているのであって、関連性喪失の状態を種にして仕事をしているのだ。だからヒットラーは、こうした関連性喪失した社会の中で、随所に何度でも顔を出すことによって、その他の支離滅裂な関連性なきものより目立つ存在になった。人々は彼に馴れ、彼を受容するようになった。それはちょうど新聞紙上の雑多な広告の中に繰り返し繰り返し出てくる練り歯磨きを、人々が買うようになるのと同様である。…人々はあまりに無関連的で、あまりに空無のなかで崩壊しきってしまっていたから、命令によってはじめて関連性を喪失した支離滅裂な自己の内部をかろうじてその周囲に寄せ集めることのできる一つの外的支柱を発見し得たのである。…ヒットラー自身があまりに無関連的であったから、日々命令によって一つの明確さや中心点を自分自身に与えることができた。こうして、ヒットラーは日々命令によって人々を引きつけ聴衆を創造し、自分自身をも創造した」

 ピカートによると、資本主義の雑多な広告が、現代人の関連性を喪失した心を形成することに、大きく影響しているようだ。こうした土壌の中でヒットラーが出てきたことと、小泉首相や安倍新総裁が登場してくる状況とは同様だ。空虚な人々にとって、「改革」という言葉を連発する小泉首相や安倍新総裁が強い存在に思えるのだろう。「改革」の内容よりも、力強い声やパフォーマンスに引かれるのだろう。その「改革」の内容とは、庶民の首を絞めるものなのに。「改革」によって得するのは、権力層と金持ちだけなのに。安倍晋三が本当にやりたいことは、教育基本法改正と憲法改正だ。庶民は、安倍政権に福祉や年金や介護など社会保障制度の安定化を期待しているようだが、勘違いしていないだろうか?

「ナチズムは、内的関連性を失った人間のあり方を完成したに過ぎない。恐るべきは、そのような人間が、自己の犯した殺人罪をさらりと忘れてしまうことだ。…彼が人を殺したりガス攻めにしたりしていた時にはもう、二三週間前に郵便切手や葉巻を売ったり、あるいはホテルでお客を愛想良く迎えていたことをすっかり忘れているのである。そして、今日はまた郵便局の窓口に座っていたり、煙草屋の店先に立っていたりするこの人間が、明日にはまたまた殺人を犯し毒ガス地獄の悪鬼となることができるのである。これが内的関連を完全に喪失した人間の真相なのである。ナチがすべてを忘却するのは、彼は何の関連性を持たないからである。これがナチの特徴なのである。つまり、彼は人殺しをするというだけでなく、何よりもまず、彼は自分が人殺しをしていることを綺麗さっぱりと忘れてしまうのである。…ナチスの世界は、関連性の喪失の上に成り立っている。こうした世界においては、人々は簡単に戦争をおっぱじめ、簡単に戦争を忘れ、そしてまた簡単に戦争に取りかかる」
「ヒムラーがバッハ演奏者であったり残虐行為を指揮したハイドリヒがモーツァルトを聴いて涙することは不思議ではないのだ。…ガス殺人の前、あるいは後に演奏されるモーツァルト、親衛隊員の背嚢のなかのヘルダーリン、捕虜収容所監視人のための図書室に並べられたゲーテの作品。…このナチスの世界では、音楽も、絵も、殺人行為も、ただ瞬間のなかにあるのみであって、人間のなかにあるのではない。…瞬間を埋めるものがたとえ殺人であれバッハであれ、ガス攻めであれヘルダーリンであれ、かまうことではない。今の瞬間にひとりの子供の腕をやさしく撫でているヒムラーのその手が、次の瞬間には死の部屋へと毒ガスを吹き送るハンドルのうえを撫でるのである。ここでは万事が瞬間を埋めるための単なる充填物にすぎない。ここでは一つのものが他のものと何の関連もなく平気で隣り合い、ひとりの人間が何の関連もなく続けさまにあれやこれやのことをすることができる。…ナチスの残虐行為は、いわば工場の装置からあるいはすっかり機械装置と化してしまった人間によって、発生したのである」

 日本は内的関連性を失った状況だと思う。過去の戦争を簡単に忘れ、再び簡単に戦争に協力する人々がたくさんいる。人々は、お金を得るため機械のように毎日忙しく働き、笑ったり、子育てする一方で、戦争という人殺しを平気で支持する。

「ナチス出現以前から、人々は人間をただ<効用価値>の面から、業績の面からのみ眺めていた。…ナチスにおいては、人間はわずかに効用価値としての、効用価値の単なる機関(からくり)のための材料としての価値しか持ってはいなかった。…彼らは自ら科学的残虐行為装置の単なる一部分になりさがったのである。…彼らの残虐行為は、なにか他のものを製造することもできる機械装置によってなされたものであるかのようだ。この装置が今の瞬間には犯行に向けられていたかと思えば、次の瞬間には民衆の福祉に、あるいはバッハの演奏に、あるいは児童教育に向けられるのである。…このようにして療養所や精神病院の入院患者の皆殺しがなされたのである。…数々の犯罪や残虐行為もナチスという巨大な生産装置の一部門に過ぎなかったのだ。それらのおのおのの部門は、最高生産額をあげることのみ専念していたのである。…この巨大な真空のなかでは、無関連のまま、際限もなく膨れあがることができたのだ。戦車も、空疎な文化も、優生学も、残虐行為も」
「フン族の凶悪さは、ちょうど大自然の凶暴さのようなものだった。…つまり自然自身が人間のなかで荒れ狂ったのであって、人間において自己の凶暴な一面を露呈したところの自然だったのである。犯罪はまた、フランス革命のように、人間の激情から突発的に生じることもあり得る。…ところがナチスの場合は、自然でもなければ激情の爆発でもなく、いわば工場の生産物のようなものである。ナチスの犯罪が、まるで工場の生産が増加するみたいに驚異的に累積するのは、そのためである。いわば残虐行為の量は、たとえて言えば輸出の量のようなものだ。…だからナチスの残虐性は、ちょうど輸出量をあらわす数字のように、簡単に忘れられてしまうのである。つまりナチスの犯罪は、人間になんの関係もないもののようなのだ。そして、人間はそれに対して責任をとらなければいけないとは思えないのである。というのは、およそいかなる人間的なものとも結びついてはいないからである。ナチスの残虐行為は、いわば工場の装置から、あるいはすっかり機械装置と化してしまった人間から、発生しているのである」

 こうした犯罪は日中戦争、太平洋戦争で、日本軍も犯していた。731部隊で人体実験を行っていた。私には、この頃の日本人のメンタリティが、今の日本人とは違っていたとは思えない。戦争のように法律で殺人が正当化されると、平気で人間を殺せる日本人が多いように思う。
 日本政府はイラク戦争にも平気で協力するし、憲法9条改正や教育基本法改正など今後さらに戦争ができる法律に変えようとしている。それを支持している日本人も多いわけだから、システムや法律が変われば日本人の行動も簡単に変わるのだろう。
 日本人は個々が機械装置と化すことによって、一億総金太郎飴になって高度経済成長を遂げた。バブル期には、政治家、官僚、ゼネコン、金融機関、ヤクザが一体となり欲望に駆られて大儲けをしたあげく、その後は彼ら権力層の欲と無責任のために不良債権が膨大となり、結局国民の税金で公的資金を注入することになった。愚かな権力層のために、国民がつけを払っているのだ。その上、無駄な公共事業などで、権力層は国の借金を膨大な額にしてしまった。これも国民がツケを払うことになり、老人、障害者、フリーター、貧乏な人々など弱者が切り捨てられ、アメリカが起こす戦争に日本の兵隊を差し出すことになるのだろう。
国民は怒らないばかりか、こうした政治家を支持しているのだから、今後日本が衰退していっても自業自得なのだろう。
一億総操り人形となって、国家装置に無自覚に踊らされているのだ。国家が右に行けと言えばみんな何も考えずにいっせいに右に行く、左に行けと言えばいっせいに左に行く、そして集団から外れるものを、いじめたり袋だたきにする。
 少し前に起きた秋田小1男児殺害事件、畠山容疑者が高校卒業する時、卒業文集に「二度と秋田に帰ってくるな」とか「死ね」などとひどい言葉がたくさん書かれていて、とてもびっくりしたが、日本の学校ならこうしたことは十分あるだろう。学校時代の畠山容疑者にも問題はあったのだろうが、集団でいじめたり袋だたきにしたり、普段は良い人でもみんなが動く方にいっせいに加担してしまう心理が多くの日本人にあると思う。
 前にイラクで人質にされた高遠さんら3人も、社会の人々から袋だたきにされていた。私の周りにも、普段はふつうの人なのに、「あんなのに税金を払うなんてもったない」などと言い出す人が何人もいたりして、気持ちが悪かった。誰も、彼らのボランティア精神など理解しようともしなかったし、彼らの活動の意味を考えようともしなかった。
 レッテルを貼って、いじめて良い、というゴーサインが出ると、みんな一斉にいじめる。 こうしたことも、資本主義社会の競争原理、雑多な広告・宣伝、思考停止して人にレッテルを貼りたがる心理、人が物であるかのように価値を決めつけて選別し、不良品を排除するように人間を扱う社会から出てきていることであり、ヒットラーを生み出した社会状況と通じている。

 それではどうしたら良いのか、ピカートはこう言っている。
「真の内的連続性を創造するものは<愛>である。ひとりの人間の過去を、ひとりの人間が体験したすべてのものを、内的統一へと結晶せしめるのは、まさにこの<愛>なのだ。人間が過ぎ去ったものに愛情を寄せることにより、つまり彼が過去のものを愛情をもって受け容れることによって、彼はそれを一つの秩序のなかへ、一つの連続性のなかへと置くのだ」

 97年にイランに行った時、人々が歴史とも故人とも家族や友人ともつながっていることを実感した。街全体から、遠い過去から連続している歴史を感じたし、人は正直さを大事にして、信頼関係を築いていた。人と人との心の触れあいがある国なので、人が亡くなった後も墓地にたびたび訪れて、故人と対話をしていた。
きっと必要なのは、内的連続性を回復していくこと、つまり歴史や自然や文化や故人や人々や普段は隠している自分との本当のつながりを回復していくことだと思う。
 日本人は、何かから逃げようとしている。過去の戦争を正当化する歴史観がはびこっているのも、何かから逃げようとしているせいではないだろうか。
 人間関係もそうだ。相手の内にあるものを見ようとせずに、イメージの方に逃げて簡単にレッテルを貼ったり勝手な期待をかけたりする。
 もっと正直になって勇気を持って、過去や現実を直視して、あるがままを受け容れることが大事なのだろう。

ネット書店の「われわれ自身のなかのヒトラー」のページ
われわれ自身のなかのヒトラー


 最近、日記を書くのがおっくうだ。一体こんなこと何のために書いているのだろう。私はもう世の中を変えようなどとは思っていない。人知れずひっそりと生きてる一介の私がこんなことを書いても世の中は変わらないし、変わる時には私がいてもいなくてもいつか変わるのだろう。残された人生、楽しく生きよう。格差社会が進んで誰かが貧乏になっても、日本が戦争に堂々と加わっても、徴兵制になって誰かが戦場に行くようになっても、私の人生とは直接関係ない。好きなことをして楽しく生きる方が自分のためだ。
 一番優先すべきは、世界の平和などではなく自分の幸せなのだろう。