2003年9月25日(木)「『枯木灘』中上健次(河出文庫)」

メールマガジンより

こんにちは。
東京は先日まで夏のような天気が続いていたのですが、急に寒くなりました。
ウールの羽織が必要な季節です。
今回は、マフラーとストールを一点ずつアップしました。
パピーのサルーテや野呂英作など良質の糸をふんだんに使用した、暖かく柔らかい手織り布です。品がありながら色鮮やかで、羽織ると楽しい気分になります。
興味のある方はこちらへ。
http://www.naoka.net/shop/shop.html

読書の秋です。
今日は、中上健次の「枯木灘」(河出文庫)のご紹介です。
これは毎日出版文化賞を取っていて日本の純文学の最高峰と呼ばれている小説です。
多くの作家が「大傑作」と誉め称えているので読んでみました。
さすがに、書店の店頭に並んでいるベストセラー小説とは較べ物にならないぐらいに、奥深く精緻でリアリティのある文学空間でした。
登場人物も生き生きとしていて、血が流れ脈打っている小説でした。
中上健次は「岬」(文春文庫)で芥川賞を受賞しているのですが、「岬」よりははるかに素晴らしかったです。
「岬」は「枯木灘」の前編としても読める小説なので、もしも「枯木灘」に興味のある方がおられたら「岬」から読むのをおすすめします。
「枯木灘」は傑作ですが、違和感を感じるところもありました。
「枯木灘」を読まれた方がおられましたら、どのように感じられたのか教えていただければ嬉しいです。

これは和歌山県の枯木灘の近くの、部落として差別を受けていたらしい(はっきりと書かれてはいないですが)「路地」という土地に生きる人々を描いている小説です。
主人公は秋幸という青年なのですが、貧困で血縁のつながりが複雑に入り組み、放火や殺人が多いこの土地とそこに生きる人々もまた主人公であるように思えます。
秋幸の母親はフサと言い、前の前の夫との間に四人の子供がいます。(一人は自殺して、三人の姉妹がいます)
秋幸は、フサと前の夫・浜村龍造との間に生まれた子供です。
浜村龍造は、蝿の王と呼ばれていて、フサをはじめとする秋幸の親族や世間の人々に後ろ指を指されています。
浜村は、フサを妊娠させると同時に、ヨシエやキノエという女も妊娠させ、計三人の女に自分の子供を産ませました。
それだけでなく、街の家々を放火してお金を儲けたり人を殺したという噂もあり、多くの人が浜村を白い目で見ていて、フサや秋幸の姉妹や親類なども敵意を持っています。
秋幸も浜村に惹かれながらも敵意を抱いていて、この小説は、秋幸が浜村龍造と向き合おうとする話であるとも言えます。
結局、秋幸は、浜村龍造の(ヨシエが産んだ)息子・秀雄と対立し、仲違いして秀雄を殺してしまいます。秋幸は自首します。
あらすじはこれでお終いですが、 殺人を犯すまでの秋幸の心の機微が非常に良く書き込まれているので、その気持ちがとてもよく伝わってきました。
心の深いところまで伝わってくる言葉の表現が純文学であり、その模範であるような小説でした。
(天童荒太の「永遠の仔」にも、放火や殺人が出てきたりして、ストーリーに起伏がありハラハラドキドキします。しかし、なぜ放火や殺人を犯すのか、あまり書き込んでいないので、心から納得できないのです。
キレたから殺した、というのはわかるのですが。テーマは重いのですが、やっぱりエンターテインメント小説ですね。)

「枯木灘」は確かに純文学として非常に良く描かれていました。
ここに登場する人間同士の距離は近いですが、信頼関係が濃厚であるのとは違うのです。
秋幸は、家族やいろいろな人が話す浜村龍造の噂や見方を信じて、浜村の息子の秀雄を殺しました。
秋幸は、母親や姉妹や親戚の浜村への見方をそっくりそのまま受け継いで行動し、特にフサや姉妹などの身内の女性たちに影響され心理的に振り回されていました。
秋幸だけでなく、みんなが他人の見方や噂話に振り回されていて、それが「枯木灘」の人間関係の本質だと思います。
例えばユキ(秋幸の義父の姉)は、白痴の子を陵辱したのは徹(秋幸の義父の兄の妾の子)だと噂していました。
そしてその噂通り、秋幸は徹が白痴の子を陵辱しているのを事実として目撃するのです。
しかし秋幸が殺人で逮捕されたら、今度はユキは、白痴の子を陵辱したのは徹ではなく秋幸だと言い始めます。
徹は秋幸を心の中で裏切ってそれに同意します。
徹は秋幸と共に働き共に遊んでいた身近な人間だったのに、拘置所に入っている秋幸に会いに行くこともありませんでした。
「枯木灘」に出てくる人々は、お互い裏では悪口を言ったり相手に嫌な気持ちを持っていて、一対一の信頼関係は希薄なのに、心理的な距離だけはとても近くて他人の見方や噂話に簡単に影響されて行動するのです。
秋幸は浜村に敵意を持ちながら惹かれていたところがあったし、秀雄も秋幸に関心があったと思います。三人はお互いに関心を持っていました。しかしこの地にはびこる噂と妄想のせいでその気持ちが壊れ、秋幸は浜村を敵視し秀雄と対立して人殺しまでしてしまいました。
「枯木灘」の人々は、色眼鏡をかけて人を見て行動し、実像を見ようとしないのです。
浜村龍造もまた、自分の祖先をある有名な伝説となっている浜村孫一だと言いふらし、勝手に碑を建てていました。
私は噂話と妄想が交錯するこうした共同体には違和感を感じました。
なぜ秋幸は、浜村についての証拠のない噂話ばかり信じて行動し、実像を見ようとしないのだろうか、ともどかしく思いました。
秋幸が人々の見方や噂話を信じて浜村の息子を殺したのは、米国が確かな証拠もないのに、世界貿易センターを崩壊させたのはビン・ラディンだと決めつけて、アフガンを攻撃したのと似ています。
実際はどうなのだろう、という批判性のないままに、盲目的に影響されるばかりの人々は精神が未開だと思います。
世の中には、こうした人が結構多くて、「自分の言うことを信じない人は友達ではない」と盲目的に追従し合うことを信頼関係だと考えている人が多いように思います。
信頼関係とは、相手への愛おしい気持ちから生まれるものでないでしょうか。
もしも、徹に秋幸を愛おしく思う友情があったなら、ユキが「白痴の子を陵辱したのは秋幸だ」と噂した時に、「いや秋幸はそんなことをする奴ではないよ」と徹は秋幸を庇ったであろうし、秋幸に会いに拘置所にも行ったと思います。
そういった一対一の信頼関係は希薄なのに、心理的な距離だけは非常に近くて盲目的に他人の噂話や見方に振り回されている、グロテスクな人間模様が描かれていました。

私たちは、人々の噂やメディアのニュースを盲目的に信じるのではなくて、本当にそうなのだろうか、と立ち止まって考えてみることが必要なのではないでしょうか。
どこか変だと感じたら、人々と話し合うことが大切だと思うのです。
日頃こうしたことを考えているため、私は「枯木灘」に出てくる人々をあまり好きにはなれませんでした。
しかし、秋幸が土方の仕事をしている時に自然と一体化しているように感じているところは、とても素晴らしかったです。
他人の痛みが自分のこととして感じられる美恵の感受性や繊細さも心を打たれました。

この小説の文体から、中上健次がとても真摯な気持ちで自分の死と向き合うようにして一生懸命に書いている、という印象を持ちました。
心の深いところまで響いてくる言葉なので、読み手としてはつい本気になって読み、考えさせられてしまう小説です。

----直伽の五段階評価----

エンターテイメント度<★★★☆☆>
芸術度<★★★★★>
テーマ度<★★★☆☆>
文体のパワー度<★★★★★>
お勉強になる度<★★★★★>
元気アップ度<★★★☆☆>

【気になる映画情報】
<マグダレンの祈り>イギリス・アイルランド合作
1996年までアイルランドに実在し、延べ3万人の少女たちが収容されたマグダレン修道院。性的に“堕落した”女性たちを収容する施設としてカトリック教会によって作られたという。3万人の少女たちの隠された真実の歴史が描かれている。
ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞受賞作品。
詳しくは下記のページへ。
http://www.magdalene.jp/magdalene/index.html

【平和行動】
★9.27 WORLD PEACE PARADE 世界の人々とともに (主催:WORLD PEACENOW)
DATE : 2003年9月27日(土)
開場13時 ラリー開始14時 パレード出発15時
PLACE :芝公園23号地
http://www.worldpeacenow.jp/

★10月5日(日)STREET PARTY+DEMO
宮下公園(渋谷駅徒歩5分)
http://asc.shacknet.nu/
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平和行動とイベント・講演などのスケジュール
http://www.mkimpo.com/calendar/webcal.cgi
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<イラク反戦>世代の考え、そしてそして行動するためのメールマガジン
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Renge/8290/TuP.htm
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メールマガジン「イラン映画を知ろう」(イラン映画の情報が得られます)
http://ml.excite.co.jp/cats/entertainment/movie/movie/docudrama-freeml.html
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先日、スピニングパーティという、織物のイベントに行ってきた。
 けっこう面白かった。私はフェルト製作をやったことがなかったため、フェルト作品を見たり講習を受けたりして吸収することがあった。
 スピンハウスポンタというお店の、蛍光色みたいな黄色やピンクの原毛が素敵だった。
 糸工房みん・りーの、草木染めの段染めのウールやクリエイティブ9(ナイン)の手紡ぎのカシミヤも素敵だった。

 左の写真は、私が作ったフェルト作品。
 今後、タペストリーにも応用できそうで、デザインをあれこれイメージしては楽しんでいる。

 私は織物をやったり小説を書いたり読んだりできるので、とても幸せだ。問題は、時間がないこと。しかし、小説は満足できるものだけを書いたらそれ以上書かなくても良いかな、と考えるようになって気が楽になった。
 何十冊、いや百冊以上出している文豪や社会的成功をおさめている小説家の小説でも、時間を削って読むに値するもの(大概代表作と呼ばれているが)は、わずか数作品ぐらいだ。
 もしも、いつか文学賞を取ったとしても、お金のためにつまらない作品を大量生産することはしたくない。そんな暇があるなら私なら織物をしていたい。



2003年9月14日(日)「織物を販売する大きな目的」


 自分で織った布を販売し始めたは今から4年ぐらい前なのだが、それ以来時々不思議に思うことがある。
 それまで私は、身に着けるものや工芸品や美術品を人々が買うのは、それを気に入ったためであろう、と単純に考えていた。
 それを好きであるから、一目惚れをしたから、自分の感性に従って買うのだと思っていたのだ。
 だが実は、そういう人は少ないようなのだ。
 あるギャラリーの人は、「作品そのもので売れるということは少ないのです。作家さんの熱意や経歴を見て、人々が信用して買うのです」と言っていた。
 東京アートセンターのお店の社長さんも次のように言う。「作品を販売しようと思うなら、大作を制作して美術展に立て続けに入選していくことが必要ですよ。個展などで、人々は大作の作品を見てすごいなあと感じて、小品を買うのです。それも奇抜なのは売れませんよ。普通だがちょっと個性がある、というのが売れるんです」
 私は、自分の心情に通じると感じて絵を買ったことがあるのだが、その画家は売れない画家ではないのにこう言っていた。「私の絵を好きで買ってくれた人は直伽さんが初めてですよ。他の人は、引越祝いなどの人へのプレゼントや受賞歴を見て買ったりするんですよ」
 前に作品を置いてもらっていたお店の人はこう言っていた。「たくさんの商品を陳列して販売して、売れ残りの最後の一点というのが、なかなか売れないんですよね」
 もしもその作品を好きであれば最後の一点でも買うのではないかと思ったのだが、現実はそうではないようなのだ。
 手織りのネットショップをいくつか見回しても、売れているのはショップのみを販売目的で運営し、長く継続して新作を次々と発表したりしているところだ。
 あるプロの手織り作家は、タペストリーの注文制作をされている。人々は作品を見ないうちから、その作家の過去の作風と経歴とブランド性で買おうとするのだ。作品を気に入るかどうかは、出来上がったものを見ないとわからないと思うのだが。その作品に惚れるというのは、一流の作家が製作したものだから、という条件に基づくものではない。
 少し前に、作者不詳として売り出された油絵に、1万円の価格がつけられていた。しかしゴッホの絵だとわかった途端に、6千6百万円で売れた。その絵を好きだからではなく、世の人々は作家のブランド性で買おうとするのだ。

 ギャラリーの人が言っていたように、その作品を心から好きだから、その作品に感じ入るものがあったから、自分の感性に合ったからお金を出す、という買い手は少ないようなのだ。
 電車の中を見回しても、本当に自分が好きな洋服を着ているのだろうか、と疑問に思うぐらいにみんな同じような格好をしている。
 目立つものや奇抜な洋服は避けて、当たり障りのないフツーの格好をしている。面白いと思えるデザインや色は避けて、オーソドックスなものを素材で選ぶ人が多いのだろう。自分らしい洋服や着てみたい洋服を堂々と着ていたり冒険をしている人はとても少ない。
 このことは、日本人の生き方の反映であるような気がする。突出するような事は避けて他人と同じような生き方をする人が多いのだ。
 「生活のためにやりたくない仕事をしている。年を取ってもうろくする前に、やりたいことをやりたい。でも仕事をやめたところで何をして良いのかわからない」と、とりあえず大多数に合わせ人と同じ事をしている人がとても多いのだ。
 その自信のなさや好き・嫌いの感覚の鈍さのために、ブランド品を買って自信を回復しようとしたり、人と同じようなフツーの格好をして安心を得ようとするのではないだろうか。

 私はまだまだ発展途上にあるが、自分にしか作れないようなユニークな織物を沢山製作していきたい。販売するからといって、売れれば嬉しい、という単純なものではない。たとえ高く売れたとしても、(ありがたくてその瞬間は嬉しいかもしれないが)、心から嬉しくなるためには別のことが必要だ。
 私が心から嬉しかったのは、いつかSAORIの大きなイベントで作品を展示した時、沢山展示してある織物を見回したお客さんが、私の作品に目を留めて小走りに近寄り手に取って見てくださったこと、去年の文学フリマで、ある人が私の織物コースターを見て「カワイイ!」と駆け寄ってきてくださったことだ。
 織物でも小説でも、作り手として最も嬉しいのは、お客さまの本心との良い出会いなのだ。
 そんな出会いをすることが、自分の小説や織物を販売する大きな目的だ。   



2003年8月30日(土)「大阪教育大付属池田小学校・乱入殺傷事件」


 日記は二ヶ月に一度にしようと思ったのだが、また書きたいことが出てきたので今日は例外的に書く。
 一昨日宅間被告の死刑判決があった。川合裁判長は宅間が発言することを許さなかった。
 被害者が、宅間を死刑にしろ、と本を書き、裁判所も宅間に発言の機会も与えないまま死刑判決を出した。私も、8人の尊い命を奪った宅間は、死刑になったとしても償いきれない大きな罪を犯していると思う。
 しかし同時に、憎悪に満ちている宅間をこのまま死刑にしても、何ら解決しないようにも思う。また、第二、第三の宅間が現れ、同じことが起きるだろう。
 判決の最後、川合裁判長は「せめて二度とこのような悲しい出来事が起きないよう、再発防止のための真剣な取り組みが社会全体でなされることを願ってやまない」と言っていたが、本心から再発防止をしたいと願うなら、今後宅間の発言を聞くべきだ。
 宅間がなぜ氷解しない怒りの塊を持ち続けているのか、その怒りの裏側を知って理解し、人々が変わらないと、学校の警備をいくら強化しても再発防止にならないだろう。
 宅間は生まれた時から親の愛情を得ることなく、精神的に未熟なまま育ち、学校でも虐めに遭ったことだろう。社会で出てからも冷たくされ、結婚もうまくいかなかった。
 こうしたことが積もり積もって、世界への憎悪が高まり、爆発したのではないだろうか。
 宅間の人格は偏っているそうだが、親などの肉親、学校の先生や生徒たち、職場の人々、元妻たちなど身近な人々だけでなく、間接的に関わっている世の中の人々、つまり私たちにも原因があるのだ、という自覚を持つことが大事だ。
 犯罪防止を心から願うなら、宅間のような生まれながらにして恵まれない人間に、私たちはどう接すれば良いのかを考えるべきだ。



「『ハッシュ!』橋口亮輔監督」

 先日、「ハッシュ!」をDVDで見た。
 直也と勝祐はゲイのカップルで同居している。そこに朝子という、子供を欲しがっている女が、勝裕に父親になって欲しいと言って近づいてくる。スポイトで精子だけをもらい、子供を産み、三人で暮らそうとする話だ。
 面白く観たのだが、少し気になるところがあった。
 ゲイの彼らは、直也のセリフにもあるように、一人が寂しいから一緒にいるのだと思った。
 勝裕が同僚の女の子からネクタイをプレゼントされる場面でも、直也は勝裕にくっついて来る。寂しいから心の距離を近づけてベタベタしているという感じがした。ベタベタは愛ではないと思う。
 この三人は、自分に欠けているものを相手に求めるゆえ仲良くしているという印象を持った。家族を自分で選び取っている、と映画の中で言っていてそれは素晴らしいことなのだが、もしも朝子が子供を産めなかったら三人の関係は続くのだろうか。
 家族と呼ぶには、脆い関係のように思えた。
 この映画を見終わった時、星野智幸さんの小説を思い出した。星野さんの小説は、ゲイを描いているものではないが、登場人物の人間関係の淡いつながりがそっくりだと思った。この映画や星野さんの小説に登場する人々は、長続きしないかもしれないがとりあえず今は一緒にいる、という人間関係なのだ。

「ハッシュ!」のHPアドレス
http://www.cine.co.jp/hush/



2003年8月21日(木)「手織りショップ開設」

 
手織りショップを開設しました。
 小説「タユランの糸車」の感想をいただければお安くなります。
 高いものほど割引率も高くなりますのでお買い得です。感想をいただける方は、価格についてお気軽にご相談ください。また図書館でもお読み頂けます。ない場合にはリクエスト用紙でお申し込みください。商品は少しずつ増やしていく予定です。



「イラン映画『10話(原題:Ten)』アッバス・キアロスタミ監督」

<あらすじ>
 イランの首都テヘランで、一人の女性が車を運転している。
 身内や街中の人々を次々と乗せては降ろしていく。
 ドライバーの女性は、離婚して再婚し、前夫との間にできた小学生ぐらいの息子がいる。
 10話。主人公の女性が運転する車に息子が乗っている。彼はこれからプールに行くのだ。
 女性は、前夫との結婚生活がいかに不自由であり、今はそこから抜け出し人間として自由と自立を求める生き方をしている、ということを息子に理解させようとしている。
 しかし息子は、「お母さんの話なんて聞きたくない!」と耳を塞ぐ。
 息子は母親に愛されることのみを求め、母親は自分の生き方を息子に理解されることを望む。
 二人は声を荒げて対立する。息子は車を降りる。
 次に姉が乗りこんできて、9話が始まる。
 姉と子育ての難しさを語り合う。
 この日は、新しい夫の誕生日だが、ケーキを買うのみで料理はしない。
 8話。一人の老婆が車に乗る。老婆は敬虔なイスラム教徒で、霊廟に毎日三回行き礼拝をしている。自 分のためではなく、恵まれない人々のためにお祈りをするのだ。
 夫も息子も亡くし、財産のすべてを知人に譲り、数珠だけが彼女の持ち物になっている。
 彼女の信心深さに、主人公は圧倒される。
 7話。娼婦との対話が続く。
 お客との関係はギブアンドテイク、でも夫婦関係だってギブアンドテイクよ、と彼女はかすれた声で笑う。
 6話。婚約中の女性との対話。
 彼女は、婚約者が結婚に迷いを感じ始めてから、礼拝に通うようになった、と言う。
 5話。息子が再び車に乗りこんでくる。
 母親と新しい父親と連れ子が住む家には行きたくない、祖母の家に行くように、と彼は何度も念押しする。
 4話。離婚した友人が車に乗ってくる。「好きだったのよお」と悲しみ嘆く彼女に、主人公は言う。「男に頼るのは、愛じゃないわ。もっと強くなって」
 3話。息子が車に乗りこんでくる。
 彼は、「ママは、汚れたお皿をいつまでも洗わないし、毎日同じ料理がテーブルに並ぶし、化粧をしてミニスカートもはく。自分のことしか考えていない」と、母親がいかに母親失格であるかを語る。
 母親は、家事などは自分の仕事である写真や絵を描くことよりは大切なことではないのよ、と言い返す。
 2話。婚約中であった女性が再び車に乗り込んでくる。
 婚約中の相手が結婚を迷っているのではなく、別の女性に心変わりしたのよ、と話す。
 チャドルを外した彼女の頬から涙が伝う。
 1話。この日も息子を車に乗せ、祖母の家に向かう。

上映映画館
渋谷・ユーロスペースについて(「10話」の紹介もあります)
http://www.eurospace.co.jp/detail.cgi?idreq=dtl1057922174

<感想>
 イラン映画としては珍しく、現代女性の生き方や問題がリアルに描かれていた。
 車の中に乗り込んでくる人物と主人公の女性ドライバーとの会話で進行し、10のシークエンスから成り立っている。
 この映画は、主人公の母親と息子との様々な問題をはらんだ関係が主軸となっている。
 主人公の母親は自由と自立を尊重し人間としてまっとうに生きているつもりだが、息子の目には母親は自分勝手に生きていて炊事も家事も下手な母親失格の人間としてしか映らない。
 これは、イラン社会における男女間の矛盾を象徴しているかのようだ。
 日本でもそうだが、人間として立派に生きる女性を好む男性よりは、セクシーな美人を好きな男性の方が多いのではないだろうか。
 男女平等を目指す日本の社会でも、女性の内面や生き方が男性から重要視され愛の対象になる、ということはまだまだ少ないように思う。
 この息子はまだ少年だから、欲しいのは母親の愛だけなのだ。
 子供は家族の愛によって健全に成長する。
 だから、母親の生き方がどうこうというよりも、愛されるのを最も望むのは無理もない。
 この母親の生き方は立派だが、家族に愛を注ぐエネルギーは不十分だと思う。
 女性が人間として自由を得て自立していくことと家庭を築くことの両立の難しさが伝わってくる。

 先日、朝日新聞に青少年の犯罪が増加していると書いてあった。
 その大きな原因は、家族関係が希薄なせいではないだろうか。
 子供に興味を持ったり食卓を囲んだり一緒に遊んで心から楽しむ家族はどれほどあるのだろう。
 この映画のように、子供を産んでも、大人が自分を生きることに精一杯で、子供に愛を注ぐ余裕がない場合が多いのではないだろうか。
 異性の内面や生き方が愛の対象として重要視されないこの世の中で、愛情ある男女関係を築くのは難しいのではないだろうか。
 青少年の犯罪をなくすには、男女が健全な愛情で結ばれ、子供が安心して育つように十分な愛情を注ぐことが必要だ。
 親が自分の問題を持ち出してきて子供の健全な成長を阻むべきではない。
 映画の10話では、母親が前夫との生活がいかに苦しく不自由であったかを息子に語り、離婚後は自由と自立を目指して頑張って生きていることを息子に認めさせようと懸命に主張する。
 この部分には共感しなかった。
 この母親の言うことはもっともなのだが、息子に離婚した相手の悪口を言うのではなく相手への尊敬を保ちつつ、事情があって別れることになった、とさらりと説明するぐらいの心の距離があった方が良いのではないか、ともどかしく感じた。
 しかし、9話から1話までは様々なイラン女性の気持ちや生き方に触れることができて面白かった。
 イラン女性が抱える問題を扱ったイラン映画は少ないので、見て損はしないと思う。

------直伽の五段階評価------

芸術度<★★★★☆>
テーマ度<★★★★★>
ストーリー性がある度<★★★☆☆>
映像が美しい度<★★★☆☆>
お勉強になる度<★★★★★>
元気アップ度<★★★☆☆>

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【9月の平和行動】
9.13 グローバル・ピース・マーチ
DATE : 2003年9月13日(土)
PLACE : 芝公園23号地
12:30 開始 / 13:30 メインステージ開始
16:30 マーチ出発(コース:芝公園23号地〜六本木檜町公園(予定))
http://www.angel.ne.jp/%7Eglobalmarch/

9.27 WORLD PEACE PARADE 世界の人々とともに (主催:WORLD PEACENOW)
DATE : 2003年9月27日(土)
開場13時 ラリー開始14時 パレード出発15時
PLACE :芝公園23号地
http://www.worldpeacenow.jp/

 今後は織物や小説の創作活動に集中するために、日記は一ヶ月〜二ヶ月に一度の更新にしたい。



2003年7月21日(月)「子供の有無で社会貢献の程度は計れない」


 森喜朗元首相は女性蔑視発言について謝罪すべきだ。仕事を責任を持ってやり遂げ経済的に社会的に自立しようとする女性にとって、子供を出産し育てることが、今の社会ではどれほど難しいことなのか、身をもって知らない森喜朗に、子供の有無によって社会貢献の大小を決めるような発言をして欲しくない。
 責任を持って仕事をきちんとやり遂げる、ということだけでも難しいことだ。表向きはサラリーマンでも、生活のために仕方なくやっている人が多い。自分が本当にしたい仕事は何なのか、それすらわからない大人が多い。やりたいことを見つけて仕事に生き甲斐を感じていても、それで食べたり家を買ったりすることは難しいことだ。
 さらに好きな人を見つけるのも容易ではない。長所や欠点をひっくるめて自分を愛してくれる異性、愛せる異性はなかなか見つからない。
 もし相手を見つけて結婚をしたとしても、出産して子供を自分の手で育て、コミュニケーションの時間を取って家庭を築いていくことは、簡単なことではない。家族の世話をして皆を問題なく成長させるには、時間と労力と精神力とお金が必要だ。
 そういったことを、責任ある仕事と両立させるのは非常に難しいことだ。ラクな仕事で好きな時に休める仕事なら両立できるかもしれない。しかし、朝から晩まで責任ある仕事をきちんとこなして、子育てにも十分なエネルギーを注ぐというのは、今の社会整備では無理だろう。仕事か子育てのどちらかが手抜きになってしまうだろう。子供を人に預けるというのは、親失格だ。かといって、無理をして両立させても、自分の身体を壊してしまうだろう。
 去年体調を崩した時、担当医が子育てをしている女医さんだった。朝8時から夜9時頃まで病院で働いていて、土曜日休日も働いておられた。学会などにも出席して勉強されているようだった。子育てはいつしておられるのだろうか、と不思議に思った。たまに、休日の診療の空いた時間に、乳母車を押して歩いているようだったが。その女医さんは、いつも疲れた顔をしていた。
 これでは、子供を抱っこしたり一緒に遊んだり、料理をして家族との団欒を楽しんだりする時間はないだろう。
 また、患者の私としても、女医さんが子育てに時間を割いて、医師としてのレベルが下がってしまっては困る。
 責任ある仕事をまっとうしながら子育てにも十分なエネルギーを注ぐのは不可能に近い、とつくづく思った。
 子供を産むことによって、仕事が手抜きになるか、子育てが手抜きになるか、自分の身体が壊れるか、そのどれかになってしまうなら、私なら出産しないだろう。あらゆる子供には、健康な人間に成長するために適切な環境で育てられる権利があるからだ。
 出産するなら、子供が三歳までは仕事を休み育児に専念するべきだ。
 その女医さんは医者として一応信頼はできたのだが、余裕のなさを感じた。私としては不安を感じてしまったので、医者をかえた。

 子供を産んでも、親が未熟だったり育て方が手抜きであったために、家庭内暴力など家庭内の病理を抱えていたり、子供が非行に走ったり犯罪を犯して社会に迷惑をかけている親は沢山いる。
 一方で、子供を産まなくても、一流の仕事をきちんとやり遂げている女性もいる。
 子供の有無で、社会貢献の程度を計るのは間違っている。

 もっとも、子供がいなくても仕事ができなくても、何らかの事情で社会貢献できなくても、社会の構成員としては平等だ。いつの社会でも、どんな社会でも、恵まれない人間はある確率で存在する。逆に言えば、恵まれない人間、つまり誰かが弱者として犠牲になっている人間がいるから、社会が成り立っていると言って良い。中心があるから周縁があるのだ。社会貢献の少ない人間が福祉を受けられない、ということがあったら人権侵害だ。



2003年7月15日(火)「政治家らの放言/青少年犯罪/根拠のないイラク戦争」

 森喜朗元首相(衆院議員)が、「子どもをたくさんつくった女性が、将来国がご苦労様でしたといって、面倒を見るのが本来の福祉です。ところが、子どもを一人もつくらない女性が自由を謳歌して楽しんで年を取って、老後を税金で面倒見なさいというのは、本当におかしいですよ」と発言していた。
 先日、早稲田大学生らによる女子大生集団暴行事件が発覚した時にも、太田誠一議員は、「集団レイプする人はまだ元気があるからいい。まだ正常に近いんじゃないか」と発言していた。前にも、石原慎太郎が「女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です」と発言していた。
 こうした政治家たちの発言の裏には、国や国家のために役に立つような人間は良いが役に立たない人間はいらない、国のために役に立つ教育にしなければいけない、という人を単なる国の一部品や家畜のように捉え、人間の尊厳を貶める考えがある。
 政治家は国の代表として一般民衆によって選ばれているのだから、こうした考え・見方が多くの人にあるのだろう。
 人間を国の物か家畜であるかのように扱うのは人権蹂躙だ。
 こうした大人社会に蔓延している人間の尊厳を認めない考えや見方が、青少年の犯罪を生み出している。
 長崎男児殺害事件や早稲田大学集団レイプ事件や酒鬼薔薇事件やオウム真理教の事件もそうだが、犯罪者に共通しているのは、人間を物や家畜のように見てしまう感覚だ。
 普通の人々の間にも、女性を美醜や若さや生殖能力の有無などで価値を決め、物のように考え扱う風潮が当たり前のようにある。
 政治家を代表とする大人社会に通念としてまかり通っている人間の尊厳を認めない感覚が、青少年たちに引き継がれ、こうした犯罪が起きているのだ。
 世界でも、超大国が第三世界に侵攻し国土を破壊し殺戮をして人権蹂躙している。米国は「イラクは大量破壊兵器を保有している」とイラク戦争を行ったが、今その根拠がどこにもなかったのが露わになっている。ブッシュ大統領は、「フセイン元大統領が最近アフリカから相当量のウランを入手しようとしたことを突き止めた」と主張していたが、その証拠は偽造だった
 米国のイラク侵攻、人間を国の一部品か家畜のように考える政治家たちの放言、早稲田大学生らによるレイプ事件、長崎男児殺害事件、酒鬼薔薇事件、オウム真理教の事件、すべて根っこは人間の尊厳を認めないところから派生している。
 人々が人間の尊厳について目覚めない限りは、いくら少年法などの法律を変えても第三第四の酒鬼薔薇が出てくるだろうし、戦争を起こして弱国を叩きのめしても大量破壊兵器を保有しようとする国やテロリストは永遠に湧いて出てくるだろう。
 私たち有権者が賢くなり、深く考えて政治家を選び投票し、世界を変えていくことが肝心だ。
 日本はイラクへ自衛隊派遣をしてますます米国に追従しようとしている。イラクの復興を支援するなら、国連の管理下でPKOの形で行うべきだ。



2003年7月6日(日)「東京アートセンター テキスタイル展」

 二年に一度の催し物で、織りのアートが沢山展示されていた。
 入り口の大きな部屋には、東京アートセンターの先生方の大きな作品が展示され、どれも一流の作品だった。その他の部屋に展示されているものは、生徒または旧生徒の作品。
 私も参加させていただいたが、なんだか照れ臭かった。


先生方の作品

最も手前の、龍の顔を綴れ織り技法で織ったものが私の作品。
陳腐な作品になってしまい少し反省。