2002年8月25日(日)「<マディソン郡の橋 終楽章>ロバート・ジェームズ・ウォラー(ソニー・マガジンズ)」

 9年前に出版された「マディソン郡の橋」に出てくるロバートに感動したので、これも買って読んだ。
 ロバート・キンケイドは68歳になり、すでにフリー・カメラマンの仕事を引退し、小屋でつつましい暮らしをしている。しかし、あの運命の四日間から16年経った今も、フランチェスカへの秘めた想いは消えることがない。最後にもう一度マディソン郡の橋を見に行こう、と彼は思い立つ。一方、一年前に夫を亡くし、60代になったフランチェスカは、マディソン郡にとどまり日課として例の橋への散歩を欠かしたことがない。ひょっとして、いつかまたロバートがやってくるかもしれないというはかない願いを抱いているのだ。
 この小説の主人公は、一生独身を通した孤高のロバートである。ロバートの生涯が、カメラマンとして戦争に赴いたり世界各国を旅したこと、道程で知り合ったウィンという女性との淡い恋など、思い出を織り込みながらじっくりと描いてある。ロバートにはウィンとの間にカーライルという子供がいたことも明かになっていく。
 結局、ロバートは最後までフランチェスカと再会することはない。しかし、家庭を持たず天涯孤独だった彼は、人生の晩年になってウィンとカーライルと出会うことにより、自分が思い込んでいたほど天涯孤独ではなかったことを知る。

 私がこの小説に点数をつけるとしたら70点だ。「マディソン郡の橋」は75点ぐらい。両方とも好きな作品ではあるのだが、どこか安っぽいという印象を持ってしまう。
 この小説の前半では、ロバートが家庭的なものを欲していたにせよ、一生独身で一つの仕事をやり遂げた孤高のカメラマンとして描かれている。そこまではとても共感したし素晴らしいと思った。
 しかし、ロバートには実は血のつながった息子がいて、彼はそれほど天涯孤独ではなかったのだ、という後半の設定は安易で単純ではないだろうか。
 血縁=孤独を埋めるもの、という単純な図式があるのだ。
 血縁でつながる人間が突如彼の人生に登場してきて、父親ロバートと息子カーライルとが対面する。
 それまでつき合いがなかったので、お互いに父親として息子として接するのが容易ではなかったとは書いてあるのだが、これではフランチェスカとの恋が実らなかった天涯孤独のロバートも血を残すことができて、めでたしめでたし、という感じではないか。
 だから安っぽいのだ。
 一生独身で身内がいなくても、孤独ではない実り豊かな人生を送ったのだ、という深遠で希望が持てる話にして欲しかった。実際、彼は天職に恵まれ、しかも生涯において仕事をやり遂げ、ウィンやフランチェスカから愛と尊敬を得て、ナイトホークという友人にも恵まれた。家庭には恵まれなかったが、息子という血縁を安易に持ち出さずに、自分は孤独ではなかったのだという境地に達することはできなかったのだろうか。
 きっと彼ならできたかもしれないが、彼の孤独が慰められたのは、地上に血を残せたことによるものが大きいと、この小説から読めてしまう。



「<マディソン郡の橋>ロバート・ジェームズ・ウォラー(文藝春秋)」

 9年ぐらい前に読んだが、ロバートとフランチェスカの陶酔と興奮だけが現実から離れて盛り上がり、感傷的なところが安っぽかった。
 四日間だけのつき合いが人生に痕跡を残す、というのは現実にありうるし設定として素晴らしいと思う。
 しかしこれは男と女の枠組みを超えた人間同士のつながりの話だと思うから、コミュニケーションを重点的に描いて欲しかった。
 コミュニケーションよりは、男の女の陶酔と興奮の方がドラマチックに描いてあり、感傷的に書くことで読者のカタルシスを促していた。
 この安っぽさゆえに、爆発的に売れたのだ。安っぽくて簡単な文章であること、という小説が売れる条件をうまく満たしている。
 読みやすい文章であることは大切なことだが、文学が安っぽくてはいけない。
 私の考えでは、この二人はただの気の合う友達だ。
 フランチェスカは魅力的な男性がいない田舎で長年暮らしていて、日常生活に埋没してつまらない人生を送っているから、ロバートとの出会いが異常に魅力的に見えたのだ。そのうえロバートは孤独だったから、二人の感情は余計に盛り上がってしまった。
 これを愛だ恋だのと騒ぎ立てて安易にドラマチックに仕立ててあるから、鼻白んでしまう。
 フランチェスカは結局、愛に人生を賭けた勇気ある生き方より、身の保全と安定した生活を選ぶ小心者であったのだ。しかも、魅力のない夫と馴れ合いと習慣で結婚生活を送り続けることを、「家族への責任」と自分の狡さを美化するのだから鼻持ちにならない。
 愛とは、危険を顧みず相手の幸せを願って自ら命を投じることだ。
 確かに、普通の人々にはなかなかできない。多くの人は結婚に、愛よりは安定した生活を期待するのだ。特に女性はそうだ。
 小心者で愛を知らない女……というのが私が抱くフランチェスカへの印象だ。
 そして、世間の大部分の人々もフランチェスカと同様に愛より安定した生活を選ぶ小心者であるゆえ、この小説はたくさんの人々に共感されて人気を得た。
 ロバートは、どうしてこんな女にずっと心の中で執着していたのだろうか。
 「終楽章」では、ウィンという女性が出てきた。彼が、ウィンよりは、フランチェスカとの出会いの方に意味を見出しているのはわかるのだが、ウィンとフランチェスカという二人の人物がどのように違うのかが良くわからなかった。
 つまり、ウィンではなくて、フランチェスカでないとなぜいけなかったのか、そこに必然性があったのか、そういったことは描かれていなかった。

 昔は、女を描ければ一流の作家、と言われたそうだが、今は、男女のまともな愛の関係が描ければ一流の作家ではないか、と思う。



「淋しい国の男の勘違い」

 日本は、人間関係が希薄で人間関係障害の問題が多い国だ。そのために、女性が男性に愛情を少し抱くだけで、男性は愛されていると思い込み動揺する場合が多い。ちょっとの愛で、大騒ぎをするのだ。だから日本の男性とは非常に友達になりにくい。
 前にもある男性に、人としての関心から話しかけると、「あなた恋人いるの? どういう意味?」と聞かれた。
 また別の男性に、ちょっとした関心から「映画でも観に行こうよ」と言うと、その男性は変な意味に解釈して、「あの人にサソわれた。僕に気があるみたいだ」と人々に吹聴していた。
 これは、私だけのケースだろうか。違うと思う。それだけ日本人は孤独なのだ。ちなみに彼らは、長年独身生活をされている人たちだった。
 ロバートとフランチェスカの恋愛の背景にも、長年孤独だったという事情があるのだ。フランチェスカには家族がいたが、心の深い部分が触れ合う関係ではなかったために孤独だった。
 孤独な世界では、ちょっとの愛がすぐにセックスにつながる。相手をよく知らないのに、胸がドキドキするようになる。女性が自分に微笑むだけで、淋しい男性はすぐにセックスを連想して、妄想が逞しゅうなり心が攪乱されてしまうのだ。
 だから、女性が男性に話しかけると、すぐに(俺に気があるのか)(可愛くないからダメだ)という発想をしてしまう。
 このように、異性をすぐにセックスの対象として捉える風潮は、コミュニケーションを妨げる。相手の価値観・考え方・生き方など何も知らないうちから、恋をしているような気分になったり、ブサイクだからと敬遠したりすることは、大きな勘違いだ。
 なぜなら、出会ったたくさんの異性と話をして相手の部屋に行き、一緒に暮らしても、なかなか気の合う異性はいないし、まして自分の力を無償で与えたくなるぐらいに価値を見出せる異性はめったにいないからだ。(時々、女にやけに優しくしたり貢いだりしている男を見かけるが、それはいつかセックスができるかもしれないという期待があるからであり、無償の愛とは違う)

 話は変わるが、23日の読売新聞によると、2001年11月に、北部同盟がコンテナで移送していた1000人かそれ以上の降伏タリバン兵が窒息死していたそうだ。
 プルサーマル計画中の、新潟県柏崎刈羽原発や福島県にある原発で、配管の亀裂などトラブルが相次いているそうだ。
 世の中にはいろいろ問題があって、いちいち気にしていると身が持たない。しかし、同じ地上で起きていることだから、意識に留めておかないと、いざという時に何も判断できなくなる。



2002年8月19日(月)「イランの人々(11)」


 ベザードは、ある日アーブグーシュトという野菜や肉やトマトを煮込んだ料理を作ってくれて、男の友達とみんなで食べた。ベザードは、8年前頃(1997年から数えて)に日本に出稼ぎに来てレストランで働いていたと言っていた。職がなくて上野公園にいた時、レストランの店長の日本人が助けてくれたそうだ。この日本人はクリスチャンだったのだ。
 ベザードはレストランで一生懸命に働き店長に気に入られ、みんなでイラン形式の料理のパーティを開いたり、日本に帰る時にはお別れパーティを開いてくれたそうだ。
 彼は一年も経たないうちにイランに帰ったのだが、この時期のことをとてもよく憶えていて、レストランの写真や店長からもらったTシャツなどとても大事に持っていた。イラン人は心がこもった物をとても大事にする。ハミッドも、5,6年前日本にいた頃、マジッドからもらった誕生日プレゼントのキーホルダーを、この日も使っていた。
 ベザードは、日本人にとても良くしてもらった、と私のことも好意的に見てくれて、博物館など案内してくれたり、私がドライアイだと言うと、日本では見かけない器具で簡単に検査してくれたりした。(彼は眼科医だったので)
 ベザードは、日本で稼いだお金で、テヘランの大学の医学部で勉強することができたと言う。
 食器棚の奥に、なんと日本で見かけるウイスキーなどの小瓶がたくさんあった。これどうしたの? こんなの持っていていいの? と聞くと、日本で買ったものだ、と言う。イランの空港で没収されないの? と聞くと、お金を払えば許してくれた、と言っていた。
 他のイラン人も言っていたが、アルコール、豚肉、女性がスカーフから髪を覗かせること、街で独身の男女がデートしたりすること、など生活面の法律違反はお金を払えば許してくれる、だからお金持ちにとってはイランはそれほど不自由ではないそうだ。(日本人観光客は真似をしてはいけない)
 しかも、医者や弁護士など地位の高い職業に就いている人々は、さらに扱いが良くなる。
 例えば、私がマジッドの家族とドライブをしていた時、警察官が来て30分も尋問されたことがあった。マジッドがお金を払ったら確かに解放された。
 しかしベザードによると、警察官が来ても医者の免許証を見せれば何も言われないそうだ。私が帰国する時、イラン空港までみんなが見送りに来てくれたのだが、マジッドたちはあるラインまでしかゲートに入れなかった。しかし、ベザードが医者の免許証を警察官に見せるとOKと言われ、彼だけはゲートのずっと奥まで入ることができた。

 でも、とベザードは言う。
 政治、社会について自由に発言できないのは辛い。書籍、映画、演劇、音楽、絵画など芸術・文化の面でも自由に表現できない。政治やイスラム教を批判する文章を書いたり芸術表現をすると、刑務所に収容され重刑が待っている。しかも、政治家やムッラー(イスラム教聖職者)たちはきれい事を言っているが、裏では汚いことをしている。これを堂々と批判できないのは、知識人・文化人にとっては辛いことなのだ、と言っていた。
 それは日本にいる時の自分に当てはめてみると、なんとなくわかるような気がした。

 ベザードは尋ねた。
 あなたが日本を不自由だと感じているのはどうしてですか?
 わたしは、子供の頃から学校や家庭、社会に出ても楽しくないのです。
 どうしてですか?
 日本では美人で成績優秀でスポーツ万能な雅子妃みたいな人に最も価値を置きます。ブスで成績が悪くてスポーツもできない人は、バカにされて友達もできないし先生にも好かれないし家庭でもうるさく言われるので、居場所がないのです。陰湿な虐めもあるし、学校では除け者にならないように気を使っていなければなりません。
 社会に出たら、上司の機嫌を窺ってペコペコしながら、あくせく夜遅くまで仕事をしていなければなりません。そうしないとマイホームを買って生活することは難しいのです。とにかく日本人は心にも時間にも余裕がないです。
 それに、日本人は笑っても、本当に嬉しいのかどうかわからない。他人に合わせるだけで、何を感じているのか普段は見せないので、心が触れ合うこともないのです。
 友達がたくさんいても、表面的なつき合いだし、好きなこともなく退屈で、魅力を感じたり尊敬できる人もいないからなかなか結婚できません。結婚したとしても子供を産んだら生活が苦しくなるし、子供もこうした辛さを味わうことになるのを思うと、子供が産まれてくるのも手放しで喜べません。
 イラン人はお互いの家を行き来して信頼して楽しくつき合っていて、金の貸し借りも安心してやっているけど、日本人はそこまで人を信用しません。日本では正直者はバカを見るのです。このように日本人は心が空しく縛られているのです。日本での不自由さは内面的なもので、目に見えないところにあるのです。
 と答えた。

 ベザードやずっと日本で働いていたマジッドやマホメッドやハミッドは、それはよくわかる、自分たちが日本で楽しく生活できたのはイラン人の仲間がいたからだ、日本人とは友達になれなかった、信用できなかった、直伽さんは例外的な存在だ、とうなずいていた。それでも、彼らは、また日本で暮らしたいが日本は無理だからアメリカかカナダに移住したいと言う。
 理由を聞くと、イランでは家が貧乏な人間は一生貧乏でイラン社会では成り上がるのが難しい、でも日本では家は貧乏でも努力やチャンスでお金持ちになれる、それにイランは不自由で娯楽が少ないからつまらない、ということだった。

 その夜は、ベザードがムッラーを真似て白いターバンをして黒いマントを羽織り、踊ったり歌ったり、ムッラーや政治の悪口を言ってドンチャン騒ぎだった。彼らはハタミ政権にも満足していなかった。
 イランではこうした若者たちは多い。政治に疑問を持っていて、時々改革派の学生たちと保守派の治安部隊が衝突している。鞭打ちと死刑があるのに、彼らは命がけで国を変えようとしているのだ。
 それは、彼らはイランを好きだから、本気で自分たちの国を改革しようとするのだ。どうして彼らがイランを好きかというと、人生の支えになっている家族や友人などの信頼関係や文化がそこにあるからだ。
 私は、日本であまり良い人間関係を持てなかったから、日本という国にあまり愛着がなく政治への関心も薄かった。選挙にもあまり関心はなかった。それは、本心で触れ合うような人間関係が希薄で、欺瞞に満ちた人間ばかりの日本社会がガラスの向こうで勝手に動いているという感じがしていたからだ。
 日本には、他人・外部・世界に関心がなく離人症的になんとなく生きている人が多い。それもこういった理由からなのだろうか。
 ペルセポリスの館長が、私に言った次の言葉が今でも忘れられない。
 日本人の心はよくわかりません。どうして自然じゃないのですか。

 イランには、信頼、愛、生きる意味、楽しみ、といった日本では消えつつあるものが、豊富にあるのだ。私にはそれが、宝石のように輝いて見えた。


                      <イラン旅行については一応終わり>



「変な夏」

 今年は異常に暑かった。この頃は涼しくなってきたが、東京の7月末〜8月始めは毎日のように30℃以上だった。34℃などざらにあった。沖縄でもこんなに暑くはないだろう。しかも今年の冬は、積もるような雪は降らなかった。去年までは、毎年30センチぐらいは積もっていた。
 ネパール、インド、バングラデシュ、中国、韓国、北朝鮮、ロシア、ドイツ、チェコ、オーストリアなど世界各地で深刻な水害が起きている。
 南国ツバルでは、温暖化による水没の危機があり、いずれ地球初の環境難民が出ることになる。そこで温暖化に関係する大企業を訴える準備をしている。京都議定書を離脱した米国を訴えるべきだと思うのだが、国家を訴えるには綿密な調査と証拠が必要で時間がかかるそうだ。
 星野道夫氏が移住していた米アラスカ州の小島シシュマレフも、地球温暖化のため島が沈没し始め30年後には消滅してしまうため、村を挙げて移住することが決まった。
 米国は相変わらず、イラクを攻撃して世界を攪乱しようとしている。
 国際刑事裁判所に期待していたのだが、米国は同裁判所に米国人を引き渡さないと約束する協定を結ばない国には、軍事援助を停止すると各国を脅している。ほとんどの国は米国から、何らかの軍事援助を受けている。
 しかも、米国では、米兵が国際刑事裁判所に拘束された場合、解放するために軍事力を用いる権限を大統領に与える法律も成立したそうだ。
 戦争に深入りする一方で、環境破壊は進み、このままでは地球は破滅へと向かってしまう。



2002年8月13日(火)「<毒身温泉>星野智幸(講談社)」

 「毒身温泉」が単行本になった。去年の11月の日記に感想を書いたのだが、それを探して読む人がいるとは考えにくいから、改めてここに書く。
 この小説は、自立、ジェンダー、セクシュアリティ、居場所、人とのつながり、など重要なテーマが織り込まれていて、とても考えさせられる。
 私は、自立のテーマを強く感じた。
 三十、四十代の独身の数人の男女が一つのアパートに住んで、依存せず甘えず縛らない、群れない、自分で生活ができること、独りで死ねること、安住を求めないという、自立した人間として、あるいはそういった人間を目指して暮らしていく姿が滑稽に描いてある。

 自立するというのは、すごく難しい。世の中を見回しても、自立した人間同士が健全な愛のもとに結婚して家庭を築いている、というケースは少ない。淋しいから、金銭面で男性に頼りたいから、家事を女性にやってもらいから、性的に欲求不満になるから、親のため、大人になったら結婚して子供を作るのが社会通念だから、世間体のため、など自分の未熟さと惰性で結婚して依存し合うというケースが多いと思う。
 家庭を作っても内部で軋轢や問題が生じるのは、自分の未熟さを未解決のままに残して、配偶者や子供に依存しているためではないだろうか。本当は自立した人間でないと家族間で健全な愛を育むことはできないのだ。

 このアパートに入居する登場人物は、自分の未熟さを見つめて自立しようとしている。
作中に、「結婚できない人と独身の線引きなんてできるの? ……実は彼女ができないからじゃないの?」という問いがある。
 彼らは、思想に裏打ちされた確固たる独身主義者ではない。自信のない普通の人々なのだ。彼らには恋愛体験もある。恋人いない歴40年という人もいれば、恋愛体験を持っていたり、恋人のような存在がいたりする人もいる。でも自立した人間同士のつながりを目指すゆえ、依存と惰性では結婚しないのだ。

 やりたいこともなく自分は何を目指して生きているのかわからない、ただ生活をするために働いているという人々は、自分が何者かわからないと同時にどんな異性を求めているかもわからない。恋人や妻がいても、その人でないといけないという必然性はない。
 相手は、取り替え可能な存在なのだ。これでは不安が生じるから、一夫一妻制という、人数を決め拘束することによって愛の強さを人工的に証明しようとする倫理観ができる。
 しかし、なぜ相手でないといけないのか、という問いに向き合い必然性がないことに気づいた時、長続きする恋人関係や一生連れ添う夫婦関係の意味が崩壊していくのではないだろうか。

 自分の生きる方向性が曖昧で、誰を必要としているのかも曖昧で、何のために自分が存在しているのかはっきりとした理由もない、自分がいてもいなくてもどちらでも良いような、意味が感じられない人生を漠然と歩んでいる人々が、それならそれで独りで生きようじゃないかと結婚に逃避せず依存せず、自分の人生の意味を模索し続け自立を目指して懸命に生きようとしている、それがこの小説に描かれている生き様だと解した。

 愛などという高尚な気持ちよりも、馴れ合いと依存で成り立っている夫婦や家族は、「毒身温泉」を読んで自立を目指す毒身者の生き方を見習えば良いと思う。
 
 セクシュアリティやジェンダーについてはよくわからなかった。人物の性が把握しにくかった。体の描写や人物の呼称や会話を読めばわかるのだが。星野さんの小説には、たまに性がわかりづらい人物が出てくる。
 それは藤野千夜の芥川賞を取った「夏の約束」にも感じた。同性愛者の日常を淡々と描いているのだが、言葉遣いや趣味などは女の子みたいだが、本物の女性(肉体が女性)の心深くにある女性心理は描かれていない。それは本物の女性ではないのだから当たり前なのだが、男性心理も描かれていない。同性愛者だから仕方がない、と言われればそうかと思うのだが、同性愛者という新しい生き方をする人間のわりには新しい心理もない。どうしてこれが芥川賞を取ったのだろうか、という疑問が今でもある。
 女性特有の内面、男性特有の内面というものはあると思うのだが、バイセクシャルや同性愛者にはそれ特有の内面はないのだろうか。

 生きる意味を自分の内面に見出しにくい荒涼とした世の中では、独身者や少子化が進み子孫を残さない人々が増えていくだろう。
 「毒身温泉」は、今の時代の重要なテーマについて描かれた貴重な小説なのだ。

 こうした事を考えている時に、話題の「廃墟の歩き方」(発行 イーストプレス)を読んだ。面白かったが、光景のあまりの荒涼さと空虚さに切なくなった。
 特に印象に残ったは、栃木県佐野市高萩町にあるK邸だ。
 広大な敷地にある大名屋敷だが、庭は伸び放題のススキに覆われ、屋敷内には埃だらけのミシンや金庫、テレビ、生活用品が転がっていて、蜘蛛の巣にまで埃が積もっている。障子を開けると、仏壇があり老若男女のモノクロの写真が飾られ、いっせいにこちらを見下ろしている。仏壇の前には錆びた包丁、床には天照皇大宮と書かれた巻物が放られている。お葬式の跡がそのままに残っているのだ。
 この豪農の当主は資産家で市議会の議員もしていたらしい。
 しかし後継者を失い、栄華を誇ったその歴史に終止符が打たれ廃墟になったのだ。
 一生独身、結婚しても子供を作らない、ということは、まさにこういう意味ではないだろうか。

 だから、「毒身温泉」に出てくる、従来の甘えた結婚に逃避しない人たちが早く自立して、深い愛と出会い、自然に結ばれて家族を持つ、という風になれば良いのではないか、と思ったりした。



2002年8月8日(木)「イランの人々(10)」

 ベザードは大学を卒業したばかりで、テヘランの下町の安いマンションを借りて一人で住んでいた。イランでは、独身の若者の一人暮らしは珍しい。みんな家族と暮らすか、寄宿舎などで共同生活を行っている。 
 彼の実家は、イラクとの国境近くのフーゼスタンという街にあったが、テヘランの大学の医学部を卒業して、アメリカに留学するかテヘランに就職するか進路を迷っていた。

 古いマンションの玄関の古めかしい扉を開けて、コンクリート階段を昇ると、それぞれの住人の部屋の扉があった。
 ベザードの部屋に入ると、長く幅広い廊下のようなスペースがあり、玄関、書斎、突き当たりはキッチンとなっていた。横に八畳ぐらいの部屋があり、ペルシャ絨毯が敷きつめられていて、天井には安っぽい小さなシャンデリアがあった。そこにテレビや食器棚があり、テーブルはなかった。食事の時には、ナイロンシートを広げて料理の入った皿やチャイを置き、座って食べるのだ。
 私が足を踏み入れたテヘランのどのマンションにも、エレベーターがなく、また浴室には浴槽がなかった。浴室の片隅に便器があり、紙はなくて、ヒデ(尻を洗うための水が出るホース)があった。少し離れた同じ空間に、シャワーがあるだけだった。それはこのマンションも同じだった。
 ホテルでも浴槽がなく、エレベーターはあったがよく故障して動かなくなった。
 
 彼は料理、洗濯、掃除をよくしていた。彼の友達や私にも、いろいろな料理を作ってくれて食べさせてくれた。ベザードは貧しかったが、他のイラン人同様に、人に施してくつろぎや楽しみを与えることに喜びを見出していた。
 この部屋に、マホメッド、マジッド、ハミッド、ベザードの二人の女友達がやってきて、イランの政治・社会規制に対する不満を言い合っていた。
 一人暮らしの独身男性のアパートに女性の私や彼の女友達が来ることは禁じられている。だから、他人に見られるといけないから窓際に近づいてはいけない、とよく言われた。男友達とは一緒に集まるが、女友達には他に女友達がいることをそれぞれに内緒にしてあるみたいで、彼女たちは交互に訪ねてきて鉢合わせすることはなかった。

 ベザードはイランは不自由だと連発していて外国に移住したいと言っていたが、二人の女友達は、他の多くのイラン人女性が言うように、自由は望むがずっとイランに住みたいと言っていた。
 一人は医学部の後輩で学生だった。
「ベザードとはただの友達で、私はもっと知性的で清潔好きな男の人が好き。ベザードはちょっとだらしない」と言っていった。彼は、毎日部屋を掃除していたのだが。
 この二人の間には、肉体的な接触はなかったが、彼はこの女友達に少し憧れみたいな気持ちを持っていた。彼女が部屋に来る前には、必ず部屋に掃除機をかけていた。
 明るくてはきはきとしていて、化粧はせず、コートの下にはシャツとスラックスをいつも着ている、しっかりとしていて真面目そうな女の子だった。
 もう一人は美容師だった。彼女は自分と結婚をしたいようだ、とベザードは言っていた。マジッドによると、医者と結婚したいイラン女性は多いそうだ。
 彼女は少し化粧をしていて、コートの下はスラックスだったが、胸元や肩を剥き出しにしたノースリーブのショッキングピンクのTシャツを着ていた。
 ベザードはマジッドらに、「すぐにヤらせる女なんだ」と冗談ぽく小馬鹿にして言っていた。(ヤらせる、というのがどの程度までを言うのかわからなかったが)
「でも、見てごらん、直伽さん、彼女は君と会って赤くなっているよ。イラン女性の中ではヤらせるタイプの女だけど、純情なところがあるんだ(だからやっぱりイラン人なんだ)」とマジッドが弁護していた。
 この二人の間に、どの程度の肉体的交渉があったのかはわからない。でも彼女は、ベザードに真面目な気持ちを持っていたと思う。ある時、ベザードの部屋にある電話機が壊れたのだ。彼女は心配して自分の電話機を持ってきた。「どうぞ、私のを使ってちょうだい」
 いかにもイラン人の恋人同士だ。ベザードの髪が伸びたら、貧しい彼のためにこの部屋でただで散髪をしてあげていた。
「あなたもベザードと外国に住みたいの?」という私の質問に「ベザードはイランを出たがっているけど……私は本当はイランに住んでいたい」
 と言って俯いた。
 彼は外国に移住したがっていたが、それがとても難しいことは誰もが知っている。チャレンジするつもりでいるが、将来はどうなるかわからない、そういった曖昧な状況の中で、彼は共に人生を歩める自由を志向する女性を探していた。

 イランでは家の中は自由といっても、独身の男女のつき合いにおいては男性は慎重だ。もしも女性側に、「あの男は私に乱暴をした」「あの男は私を犯した」と訴えられたら、男性は不利な立場に置かれる。賠償金を払わねばならないし、妊娠していたら、結婚をしなければいけないからだ。
 だから、イランを含む中近東の独身男性や寡男は、規制が厳しくて日本のように性交をする機会を持てない。もちろん売春宿みたいな性産業の娯楽施設もない。(陰ではあるそうだが、ばれたら死刑などの重罰がある)そのため、外国人女性が狙われて犯される、という危険がある。実際にそのような事件は中東地域ではかなりある。
 しかしイランの多くの男性は紳士的で、前の日記にも書いたが、たとえ夜に二人きりになったとしても好きな女性が体に触れないで欲しいと言うと、実際に何もしないのだ。信頼関係の方を大切にするのである。 
 恋人、異性の友達がいて、お互いの家を行き来しても、童貞・処女で結婚する人が多いのだ。

 女性には門限があり、夜に一人暮らしの独身の男友達の部屋にいたことがばれたら大変なことになるので、彼女たちは日が暮れないうちに帰っていた。

                                       <つづく>



「住基ネット」

 住基ネットによる国民の番号管理が始まった。不気味だ。番号を入力するだけで、国民健康保険証、住民票、免許証など様々な個人情報が瞬時にして集められるのだ。
 収入、借金、買い物履歴、図書館やレンタルビデオでの借り出し記録、電話やメールのやり取り、HPなどインターネットでの活動、本籍、家族構成、学歴、病歴、結婚歴、妊娠・出産歴等々、こうした個人情報が、一元管理される日が目の前に来ている。
 情報が流出したり、これが悪用される可能性は高い。今も、防衛庁から自衛隊の情報データ通信システムの重要資料が外部に流出した事件が問題になっている。どんなに、情報を厳格に管理していても、このような事件は必ずある。
 国が強調する完全なセキュリティなどありえない。
 国家が具体的な個人情報をどのように利用するのかも不安だ。
 例えば、国の政策に反発する者、平和運動をしている人間についての個人情報を瞬時に集め、いろんな手段で圧力をかけることも可能だ。
 基本的人権を守るためにも、住基ネットを廃止せねばならない。
 今からでも間に合うそうだ。 「住民の便利のためにつくった」法律なら,全国民が「いらない!」とはっきり言えば廃止できるはずなのだ。全国的に関心が高まれば,国会議員も動かざるを得ない。そうすれば国会で住基法を改正させ,住基ネットを廃止させることができる。
 福島県矢祭町,東京都杉並区,東京都国分寺市などは、参加しないと表明している。横浜市も本人の意志を尊重すると表明している。
 もっと多くの市町村が住基ネット不参加を決めたら,住基ネットの存在価値が低くなり,廃案にさせることができるのだ。

 櫻井よしこ(ジャーナリスト)が代表となっている、「国民共通番号制に反対する会」によると、私たちにできる具体的な方法が2つある。
 1つは「私に番号をつけないでほしい」というお願い葉書を自分が住んでいる市町村長あてに出すことだ。そういう通知がたくさん届けば,市町村長としては無視できなくなる。
 もう1つは「住基ネットから離脱してほしい」というお願い文を自分が住んでいる市町村長と市町村議会議長あてに出すことだ。市町村議会が住基ネットの実態(住民にとってのメリットはほとんどなし,市町村にメリットなし,費用と責任は市町村負担)を知れば,9月の議会で住基ネット問題を取り上げてくれ,「住基ネットから離脱して不都合がないのであれば離脱すべきだ」という意見で議会がまとまる可能性がある。
 住基ネットにより被害を受けるおそれがあるのは国民一人一人であり、廃案のきっかけを作るのも国民の一人一人なのだ。

 国民共通番号制に反対する会のHP
http://kokuminbango.hantai.jp/



2002年8月2日(金)「<一億三千万人のための小説教室>高橋源一郎(岩波新書)」

 今まで読んだことのある小説作法を教える本の中では、一番面白かった。本当に小説を好きなゆえ自然に小説を創るに至った人間として、小説創作とはどういうことか、本質的なことを易しい言葉で書いてある。
「だいたい、世間で出回っている小説のほとんどは、小説以前<小説のようなもの>です。わたしは、みなさんに、そんなものを書いてもらいたいとは思わない。そんなものを目指す必要なんかありゃしない。そんなもの<お仕事>でやってる、毎回同じようなものを書いて、とりあえず読者の目を誤魔化しときゃいいと思ってる、小説家の人たちに任せときゃいいんです。わたしが、みなさんに書いてもらいたいもの、それは、あなたが最後にたどり着くはずの、あなたひとりだけの道、その道の向こうにあるものです」
 と高橋さんは言う。つまり、新人賞の獲り方や小説家になる方法について書いてある本ではないのだ。小説創作において本質的なことや小説を楽しむこと、について書いてある。
 小説とは何なのか、というテーマから、小説という枠組みを通り抜けて、生きるとはどういうことかについても考えさせられる。だから小説創作をしない人にとっても、面白く読める本だ。

 印象に残った著者の言葉を挙げてみよう。
「その人に用意された道は、最後にはたった一本になってしまいます。……すべての傑作といわれる小説は、その小説家が、最後にたったひとりでたどり着いた道、その道を歩いて行った果てにあります。……確かに、難しい……でも難しくないともいえる。なぜなら、その道はあなた専用で、いつだってあなたが来るのを待っているから」  

 ある音楽一家の兄弟の一人が死に、私はわんわん泣いたが、周りの人はみんな笑っている、“どうして笑っているの?”、という何かの小説のエピソードを挙げて、著者は言う。
「すべての小説は、<笑っているみんな>の方が間違っているのではないか、という、孤独な疑いの中から生まれてくるものである」

「……なぜ教育とか、学校というものがあるのでしょうか。それは<一日六時間、みんなで同じ机に向かい、先生が黒板に書いていることを書き写す>というような無意味なことを、我慢できるような人間を作るためです」

「小説を、いつ書きはじめたらいいか、それが、いちばん難しい」

「小説に書けるのは、ほんとうに知っていること、だけ。……<知っている>ことと<ほんとうに知っている>こととは、まるでちがうのです」

「小説は書くものじゃない、つかまえるものだ」
 著者は、知識をぜんぶいったん忘れ、感受性を研ぎ澄まし、暗闇の中で目を見開き、沈黙の中で耳をすまさなければ、小説をつかまえることはできない、と言う。この奇跡の瞬間が本に書いてある。

「他の人とはちがった目でみる」

「小説とあそんでやる」
 これは、小説とつき合うということで、つまり相手の世界に入って楽しむこと、なのだ。

 好きな小説をまねることが大切だ、と書いてある。
「まねることは、その間、それを生きること、でもあるのです。……飛んで来るたくさんのボールの中に、あなたの恋人を見つけてください。好きにならずにいられないものを見つけてください」
 ボールとは、ここでは小説のことを言っているのだ。
 そして、受け継がれた言葉は、その人だけの言葉に行き着くのだ、と言う。

「詩というものは、なにより形が生命、です。小説には、形がない。確固としたものがない。……詩というものは、本来<うた>だから……、けれど小説というものには、本来の何か、などないのです」

「見失いそうになるもの、見ないようにしたいもの、そういうものの存在を忘れないように……たましいのことは大事だけど、たましいのフリークス<奇形>がいるということを、わたしたちは忘れてはならない。そして、その、たましいのフリークスの呟きを聞くことできる耳を持たなくてはならないのです」

「……千年前の、知らない人が生き返って、目の前に、現れる。そして、つかつかと、あなたの真ん前に来て、<あんた、元気?>と話しかける。あらゆるものを、わかることばに翻訳して、死んだことばを、生きていることばにして、運んで来てくれるのが、小説」

「……どこにも行くところがなく、しかし、それでも、強く、自分のことをしゃべろうとする、遠くから、強く、こちらに向かって、やって来ることばを、わたしは、小説と呼びたい、と思うのです……それを読む以前のようには、世界を見ることができなくなるような、そんなことば」

「自分のことを書きなさい。ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて」

 最後には、小説家になるためのブックガイドが付録としてついている。

 高橋源一郎氏が「小説を、いつ書きはじめたらいいか、それが、いちばん難しい」と言われるように、機運が熟する時期は人それぞれ違う。
 良い作品を書けば、あらゆる年代の人がデビューできるような、運や条件に左右されることのないシステムができないものだろうか。
 小説というものは、人という心が織りなす、かけがえのない営みの結晶なのだ。これが、運や売れるための様々な条件によって潰されて日の目を見ず、ゴミくずにされてしまうのは、書き手としては悲しいことだ。