2002年5月29日(水)「<プロミス>B.Z.ゴールドバーグ共同監督 パレスチナとイスラエルの子供たちを撮ったドキュメンタリー映画」

 昨日は、<プロミス>の試写会に行った。ほんの20分と離れていない所に住んでいるのに、お互いのことを全く知らないイスラエルとパレスチナの子供たち……。8〜12歳の7人の子供たちの日常を追いながら「人はなぜ憎しみあわなければならないか」を問うドキュメンタリー映画だ。
 これは、パレスチナ・イスラエル問題を声高に訴える映画ではなく、子供たちの眼を通して和平の可能性を考える映画だ。最終的に、中東問題解決ならびに和平努力は、パレスチナとイスラエルの子供たちに託すほかないことを伝える。

 B.Z.ゴールドバーグ監督は、少年時代をイスラエルで過ごした。イスラエル側の人間がこうした映画を製作・公開することは、とても意味ある和平への努力だ。

 ファラジは、デヘイシャ難民に住んでいるパレスチナ人。彼は、イスラエル兵に殺された友達の仇を取りたいと思っている。「いつか必ずこの土地を取り返してやる」とイスラエルに敵意を抱いている。
 サナベルもデヘイシャ難民キャンプに住んでいるパレスチナ人。「エルサレムはキャンプから10分なのに、検問所のせいで一度も行ったことがない」という。
 マハムードは東エルサレムに住むパレスチナ人。ハマス(イスラム抵抗運動)を支持していて、「ここは絶対アラブの土地だ」と主張する。
 ヤルコとダニエルという双子の兄弟は、西エルサレムに住むイスラエル人。彼らの関心事は、陸軍、宗教、バレーボールであり、「戦争やテロで人々が死んだと聞くたびに殺し合ってバカみたいだと感じる」とリベラルな考えを持っている。
 シュロモはユダヤ教徒地区に住んでいる。超正当派ユダヤ教徒なので、兵役義務は免除され代わりに国からの給付を受けて神学校に通っている。「パレスチナ人の気持ちはわかるが友達にはなれない」と言う。
 モイセは、ベイト・エル入植地に住んでいて、将来はイスラエル軍の最高司令官になり、アラブ人を1人残らずエルサレムから追い出したいと考える。「ここはユダヤ人の土地だ。アラブ人と仲良くしたら友達に臆病者扱いされちゃうよ」
 彼は、イスラエル軍が軍事訓練する土地に立ち、パレスチナ人が住む地域を指さして言う。「この場所なら銃器の弾が的を外れても、パレスチナ人が住む地域だから良いんだよ」

 最後には、ヤルコとダニエルがデヘイシャ難民キャンプを訪れ、ファラジやサナベル、その他のパレスチナ人の子供たちと一緒に格闘技や球技をして遊ぶ。
 イスラエルに憎悪を感じていたファラジの心が融和していく。みんな刺々しかった気持ちが解けていた。イスラエル人とパレスチナ人の子供たちが楽しそうに一緒に遊ぶ光景には心を打たれた。
 一緒に遊んで楽しむことは、すごく大事なことに思われた。

 B.Z.ゴールドバーグ監督とカルロス・ボラド共同監督のトークショーもあった。監督は、「イスラエル軍はヨルダン川西岸地区、ガザから撤退すべきだ」と言っていた。
 子供たちとは今でも交流があるそうだ。デヘイシャ難民キャンプにいるファラジは絶望していて、アメリカに行きたいと言っているそうだ。残念なのはファラジが、一緒に遊んだ双子のヤルコとダニエルに連絡を取っても、彼らの方からはファラジに連絡をしないことだ。監督は、まだ内面的にもわだかまりがあり、家庭環境、社会環境にも隔たりがあるのだろう、と話していた。
 ヤルコとダニエルはもともとリベラルな考えを持っていたから、ファラジを嫌いだという気持ちはないのだろうが。映画では楽しそうに一緒に遊んでいたのに、どうしたのだろう。

 この映画の撮影は1997〜2000年の比較的平穏な和平交渉の時期に行われた。パレスチナとイスラエルの対立が激化したのはそれ以降だ。
 2002年4月の日記にも書いたように、イスラエル軍によるパレスチナ人の大量殺戮もあった。
 これも4月の日記の「パレスチナの子供たち」のところに書いたが、パレスチナ人の子供たちに、将来は何になりたいか? という質問のアンケートを取ったところ、80%の子供たちが「殉教者になりたい」「シャロンを殺す」「イスラエル人を殺す」と答えたのだ。ヨルダン川西岸で青少年育成団体を主催するアドリ・ダナさんは、「今すぐ子供たちの心のケアが必要である」とおっしゃっていた。
 きっと、映画のように、イスラエル人とパレスチナ人の子供たちや大人たちが頻繁に交流して楽しみを共有することで、もつれた敵意が解けてくるのではないかと思う。
 イスラエル人の方から、反省の気持ちを持って歩み寄っていくことが大切だと思う。イスラエル軍がパレスチナ人に土地を返還すべきことは言うまでもないことだが。



「3度目の朱入れ」

 また、沢山の朱入れがある原稿が戻ってきた。今度は別な編集者の方がチェックをしたので、修正すべきところが増えたように感じる。時間をかけていろいろ説明していただいた。
 それぞれの編集者の方の視点から、いろいろアドバイスを受けたり指摘されたりして勉強になっている。
 基本的にはこれが最後の修正になるはずなのだが、もう一度校正をするとしたら、出版日が延びる。延びたとしても困る人はいないので、作品の完成度を高めることが第一義だ。だから、いつ出版されるのか(夏頃だと思うのだが)、具体的にまだわからない。
 今こだわっているのは、妻子持ちの男が他の女性とつき合う時の心情についてである。しかも独自の倫理観を表現するにはどのように描けば良いのか、いろいろ悩んでいるのだ。しかし、編集者の方々との対話で、自分の中ではっきりしてきたものがある。

 小説を書くには文章力が必要なのだろうが、単に文章力がある人ならライターなど沢山いる。しかし小説創作では人間を描くため、いろんな立場の人間の心情について理解していることが大切なのだと感じている。それも私の価値観において小説世界を構築することが大事で、ありふれた作品になってしまっては世に出す意味はないのだと思う。



2002年5月26日(日)「日本人とイラン人」


 先日、少し前に書いたイラン人とは別のイラン人と話をしたのだが、この人もだんだん日本に疲れてきたと言っていた。どうして、と尋ねると、自分とは違う人間ばかりだ、と答える。
 「日本人は心より物質の方が大事だ。日本人とイラン人、<友達>の意味が違う。日本人の<友達>は、元気の良い時だけ一緒に遊ぶ、でも困ったときは助けない、知らない人になる。イラン人の<友達>はそれとは違う。イラン・イラク戦争の時、僕も戦場に行ったけど、友達のために死んでいく兵士を沢山見た。友達を庇って自分が撃たれるんだ。イランではこれを<友達>って言うんだ。<友達>とは一緒に遊ぶけど、困った時には親しければ親しいほど命を賭けて助けるんだ」
 戦場では、10%ぐらいの兵士が、最も死ぬ確率の高い最前線で戦うそうだ。残りの大部分の兵士はその後方についている。ボスから命令されて最前線にいく兵士もいるが、多くの場合最前線で戦うことを自ら選ぶそうだ。
 彼らは、母国のため、愛のために死ぬことが誇りなのである。

 また彼はこうも言っていた。「日本人にも心はあるけど、心をオープンにすることを望まない、常に心を隠して演技をしているから、何を感じて何を考えているのかわからない。イラン人同士だと心が通じない場合、再びお互いに心をもっとよく見ようと試みる。イラン人は基本的に心をオープンにするのを欲している」
 まったく同感である。私はイラン人の正直さや自信があるところが好きだ。
 私は日本人の欺瞞性をなくして、まともな社会にしていきたいと考えている。



「キャラバンサライ/5,24」 「有事法制反対デモ4万人」

 一昨日「キャラバンサライ」というDakini Recordsがサポートするライブに行った。
 私の3作目の小説のタイトルも「キャラバンサライ」だが、このライブでは、モンゴルのシルクロードにおいて交易を行なう商人たちの宿泊テントを意味している。かつては文化の交流場となり、音楽や踊りが披露されていたという。
 この日は西麻布のbulletsにて行われたのだが、場所によってライブの完成度に多少違いがあるような気がする。個人的には、青山スパイラルビルのCAYで行われるライブの方が好きだ。しかし、GoRoさんのデジリドゥ、Madokaさんのサズ、Sevdaのセッションは素晴らしいし、Keikuのアジア的なボーカル、Mishaalのベリーダンス、Makyoの音楽なども良かった。
 デジリドゥとは、オーストラリアの原住民、アボリジニーの民族楽器で、床まで届く長くて太い管楽器。音も太くて野性的な音が出る。力強い音の周囲に、吃音みたいなユニークな響きがある。サズとはトルコの弦楽器で、素朴だが金属的な響きがある。
 ベリーダンスは、古代から伝わる中近東地域の踊りである。ベリーとは、英語で腹部という意味で、腰や腹部を細かく複雑に動かしたり体幹をくねらせたりして、女性の体の優雅さや美しさやその奥にある女性の内面を表現する踊りだ。

 24日、有事法制に反対する労働組合や市民団体などが東京・新宿で「STOP!有事法制5・24大集会」を開いた。参加者は主催者発表で約4万人。公園は垂れ幕やのぼりを持った人々で埋め尽くされたそうだ。宗教関係者や運輸関連の労組20団体が呼びかけ、共産党の志位和夫委員長や社民党の土井たか子党首も出席。「政府に対し直ちに有事法制整備を断念して法案を廃案にするよう強く求める」との大会宣言を読み上げた後、国会などに向けてデモ行進した。

 先日、「タユランの糸車」の表紙の色鉛筆画を描いてくださったAYAKOさんという方と初めてお会いして、色鉛筆画の実物を初めて見た(今までAYAKOさんのHPに載っている絵と糸車の原画しか知らなかった)。味わいと温もりがありどこか懐かしいような絵だった。色鉛筆画はタッチが命なのだと思った。AYAKOさんも、人間味のある暖かい感じの方だった。
 表紙の糸車の絵は、私のイメージ通りでとても気に入っている。AYAKOさんのHPにある色鉛筆で描かれた葡萄の絵を気に入り、糸車の絵をお願いしたのだが、良心的な方だったのでとても安心した。



2002年5月22日(水)「<未刊の辞――『美しい魂』は眠る>島田雅彦」

 早く4作目を書き上げたいのと、「タユランの糸車」の最後の修正をしたいために、日記は一週間に一度にしたかったのだが、また書いてしまった。
 新潮5月号に載った島田さんの<未刊の辞――『美しい魂』は眠る>にショックを受け、同時に心を打たれたからだ。それだけ島田さんの小説は、長年にわたって私の自我の形成に深く関わってきた。それに、「美しい魂」ではカヲルと皇室に入った不二子との恋愛が語られるはずだったので、私はとても楽しみにしていたのだ。
 しかし刊行されない。その理由はこうである。
 皇室問題に触れるという問題で、右翼団体やその他の圧力団体の行動を恐れているのだ。彼らの脅迫や抗議にさらされたり、暴力の被害を被った文学者が島田さんの知り合いにもいて、自宅に街宣車を横付けされたり、@@小学校に通っている娘は元気か、と書かれたカミソリ付きの手紙が届いたり、路上でいきなり袋叩きに合っているそうだ。子供や妻に危険が及ぶとなると、言葉では対処できない。
 実際に、60年代の大江健三郎氏の「政治少年死す」や深沢七郎氏の「風流夢譚」が引き金になった右翼テロは、現在に至るまで文学表現に暗黙のタブーを強いてる。これはつまり、果敢な文学表現が、却ってのちのちの作家を不自由にすることもある、ということだ。
 例えば「風流夢譚」事件では、中央公論社社長宅が襲撃されて死者が出た。これは「風流夢譚」の出版自体は罪ではないし、言論の自由として認められるべきだが、作者が出版によって起こりうる事態を想定していなかったことは責められるべきではないか、というのだ。
 私が心を打たれたのは、次のような意味の最後の箇所である。
 「美しい魂」は、こうした日本を包み込む暗黙の共犯関係を飛び越えて、より風通しの良い議論の糸口になると信じて、出版の機会を辛抱強く待ち続けるしかない……いざ出版され、脅迫や圧力をかける団体やメディアが現れたら、今回感じている欲求不満を全てそれらにぶつけて戦うでしょう。私は腰抜けかもしれませんが、泣き寝入りするつもりはありません。

 最後は、果敢な言葉で締めくくられていた。やっぱり本物の作家なのだと敬服した。
 最近、朝日新聞阪神支局襲撃事件の時効が成立したが、この右翼のテロの犯人も捕まっていない。こうしたこともあって、右翼の抗議や襲撃を恐れて及び腰になっている記者が沢山いるそうだ。

 右翼団体と皇室の問題は見えない情報がありすぎてよくわからないが、私なりの意見はこうだ。皇室は右翼団体とどのようなつながりがあるのか、また戦争責任について明確にして欲しい。その上で、右翼団体と皇室は切り離して考えるべきだ。
 言論の自由は守られるべきだから、皇室反対も賛成も両論あって良いのだ。そのことによって、テロを起こしたり暴力に及ぶことが問題なのだ。

 ところで、世界の思想界で注目されている「帝国」という本が夏頃に以文社から出版されるそうだ。著者は、アントニオ・ネグリとマイケル・ハート。ネグリはマルクスやスピノザの研究で世界的に知られるイタリアの政治哲学者で、今は極左過激派との関係を疑われ刑務所に服役、仮釈放中らしい。
 2人のいう「帝国」とは、「帝国主義」とは違い、領土や境界を持たず、中心がなく、ネットワークで全世界を支配しているものだ。新しい政治的な世界システムを「帝国」と呼んでいるらしい。



2002年5月21日(火)「<彗星の住人>島田雅彦(新潮社)/浅い恋愛」

 基本的には島田さんの小説は好きだし面白いと思うのだが、いつも少し引っ掛かるところがある。それは島田さんの女性に対する姿勢についてである。島田さんの小説の中の様々な「恋愛」は、「美人」を追いかけて獲得するというパターンからなっている。お山の頂点に掲げてある旗をいかに獲るかという手柄と性欲が紡ぎ出すような「恋愛」なのだ。
 しかしそれを除けば、多くの作品はエンターテイメント性と文学性を兼ね備えていて、一定の完成度があり当たりはずれがない。なんといっても、長編小説ですら冒頭部分から読者を引き込みどんどん先へと引っ張っていき最後まで飽きさせない、その上知的好奇心も満足させるというのはすごい才能なのだ、と感服する。しかも多作で大学の先生でもあり、料理や朗読や外国旅行など様々なことをされているので、時間の使い方が天才的だと思う。

 <彗星の住人>のストーリーはここに書いてあるので、時間がないこともあってわざわざ書かないが、国家体制の矛盾と、「恋愛」が歴史を揺さぶっていく様子を、様々な時代や男女を交錯させて描いてあった。
 少し気になったのは、歴史を動かすような世紀の大恋愛だと謳ってあるにもかかわらず、主要な柱をなす「恋愛」が浅いところだ。このためにエンターテイメント寄りの深みのないものになっているのではないだろうか。
 しかし、今までの「恋愛」と違うところは「美しい恋愛」であるところだ。確かに、純愛のように美しかった。しかしどの「恋愛」も浅い。ピンカートンと蝶々夫人の恋愛が希薄なのは当然のことだ(夫人の感情は激しいのだが)。悲劇的な結末が語るように、2人のつながりはもともと薄かったのだ。カヲルと不二子の恋愛も浅い。だがこれについては次作の「美しい魂」で語られるのだろう。
 マッカーサーと松原妙子の愛も変だ。松原妙子は言う。「……私が元帥にしてあげられるのはやすらぎを与えることぐらいでしょう。ならば、一番いい顔をいつも元帥に見せるのが、私の務めだと思って、元帥の隣りに監督さんがいるつもりで、演技をしようと思った。……その時の元帥の気分を察して、笑顔を作ってみたり、憂いの表情を浮かべてみたり……」
 2人の愛が深いものであったら、演技をする必要はないと思うのだが……。
 蔵人と松原妙子の間にも恋が芽生える。これも純愛だが浅いものだ。妙子が蔵人をあきらめた理由をアンジュはこう語る。「……あの人が(妙子)蔵人さんとの恋をあきらめたのは、年の差を思ったからよ。……自分が老いゆく姿をクロちゃん(蔵人)に見られなくない、そう思ったに違いないわ」
 日本人的な自信のない愛である。もしも愛が深いものであったら、老いた姿になったら愛を失う、相手をがっかりさせてしまう、という発想はしない。松原妙子はプライドが高いのだろうが、見栄やありのままの自分に対する自信のなさを感じる。

 「彼岸先生」においても、浅い「恋愛」ばかりが描いてある。けれども濃厚な性交渉を繰り返しながら様々な女性を渡り歩くのだ。最後には、現実の女性に希望を持てなかったのか(始めから女性とのコミュニケーションは描かれていないのだが)、もともとの気質のためなのか、生き方の根本に問題があるのか、心の荒涼とした砂漠に出てしまう。この作品を救っているのは、最後の手紙だろう。私はこの手紙があるゆえに、読んで良かったと思ったし、島田さんの作品は基本的に信頼できるものだと思った。
 島田さんは恋愛を他のテーマと絡ませて書かれることが多い。作品の全体のテーマは重いし、小説の最後の方で島田さんの真摯な表情が出てくるようなところは好きだ。また高度な小説作法や教養にも憧れている。ただ恋愛の部分に関しては疑問がある。

 島田さんの描く「恋愛」が浅いのは、「そしてアンジュは眠りにつく」の中に書いてある次のような姿勢のためだと思う。ある小学生の親父が、息子と同級生のある女の子が可愛いと聞き、授業参観日でもないのにお洒落をして床屋経由で教室までやってきてニヤニヤしながら授業を見学するのである。
 島田さんのどの作品にも、女性へのこうした態度が根本にあると感じる。相手をありのままに見ようとせず、錯覚と陶酔を求める姿勢が「恋愛」を安っぽくしているし、男女の人間としてのコミュニケーションを妨げている。「美人」という言葉を多用するのもどうかと思う。文学的な表現ではないし、また「美人は良い」という風潮を作って欲しくない。こうした風潮のせいで不美人が損をし、ますます生きづらくなるのだ。島田さんの書く「恋愛」は、人間としてのコミュニケーションが希薄だ。

 人間としての深いコミュニケーションとは、相手を理解して長所も短所も受け入れ、相手の抱えている問題とも向き合い共に乗り越えようとするものだ。そういったコミュニケーションが希薄なために、独身や離婚が増えている。


 しかしこの浅い「恋愛」が若者らしい爽やかな形でうまく生かされている作品もある。「優しいサヨクのための嬉遊曲」「夢遊王国のための音楽」「亡命旅行者は叫び呟く」などだ。私は感覚的に、初期の作品の方が好きなのだ。
 他に「浮く女 沈む男」「僕は模造人間」なども面白いと思った。特に「浮く女 沈む男」の船の中の描写は圧巻だった。

 島田さんの作品の多くは、「純文学とエンターテインメントの中間の読み物」だと私は解している。いろいろ書いたが、次のようにはっきりと言える。他のエンターテイメントを読むよりは、島田さんの作品を読む方が断然面白いと。

 私も小説を書いていて、純文学の深さとエンターテインメントの面白さを両立させるのは難しいことなのだ、と思う。でも私なりに克服したいと思う。

 昨日は久々に自分で織った布で洋服を作った。
 あまり時間がないため、週に一度ぐらいの日記にするつもりだ。



2002年5月16日(木)「自作<眠る月>の結末」


 先日、<眠る月>を読んでくださった方と話をした時、次のようなことを言われた。
「結末が曖昧だったと思います。最後まで読んでこのような結末では読者はどうして良いのかわかりません」
 この方は、小説の中に答えを求めていたのだ。<眠る月>の主人公・卓は家業を継ぐために医大に通っていたが、自分のやりたいことではなかったために中退する。話の途中で、沙夜というアクセサリーを作る女の子との恋愛があるのだが、最後の方で離ればなれになる。
 卓は将来の安定を保証された道を捨てて、ライターの仕事をし始めるのだが、やりたいことをやり始めた、好きな人と出会ったからといってこれが即、薔薇色の世界につながらない。新しい道を歩み始めても、自分は究極のところ何を書きたいのか、どのように生活していくのか、という課題が生じてくるし、好きな人と一緒に生きていく場合でも相手の抱えている問題とも直面する。
 それでも卓にとっては、ライターの道を歩むことの方に意味を感じたし、他の女の子といるよりは沙夜と一緒にいることの方が嬉しかったのだ。

 好きな仕事を選択しても、好きな人と一緒に生きたとしても、克服すべき課題は必ず現れてくると思う。そこに意味を見出せるかどうかが、本当に好きなのかどうかの分かれ道だ。

 私が自作について説明するのも変だが仕方がないのだ。



「ネットワーク型組織/歪んだ社会システムを改善するには」

 最近、3人の在日イラン人とお茶を飲みながら話す機会があった。日本で結婚をして子供を幼稚園に通わせているイラン人男性によると、独身で日本で働いていた頃は日本は面白い国だという感想を持っていたそうだが、結婚して日本に住んでみると見方が変わってきたと言う。
 上司にはペコペコしなければいけない、休日に同僚の日本人の友達を遊びに誘っても、忙しいからと言っていつも断られる、イランの人々のようにみんなが会って楽しむことがないからつまらない、と言うのだ。それどころか、自分の子供が幼稚園で混血児だという理由で虐められているという。最近は子供まで自分のことを、パパばか、と言うのでショックを受けたそうだ。イランでも虐めはあるそうだが、日本のそれとは違う。もっとカラっとしているし、先生も厳しく叱る。ところが、日本の虐めには温かさがなく冷たい、それどころか先生まで黙認している、と言うのだ。
 結局、3人のイラン人たちの一致した意見は、日本人の多くはつまらない、なかなか信用できない、心の温かさが足りない、お金が貯まったらイランに帰って生活した方が幸せだ、ということだった。
 私は日本人の心は冷たいとは思わないが、彼らの気持ちはよくわかる。イラン人は心が豊かな人種であり、道徳心を持ち、人との繋がりに強い信頼関係を求める。だから余計にそう感じるのだろう。

 宮内さんの掲示板でも、何人かの子供や若者が、学校で虐められても先生は叱らない、黙認している、学校がおかしい、と書き込んでいた。
 私は日本の社会はどこかがおかしい、と感じている。女の子たちは、楽しいのは若い時だけ、と妙に明るくはしゃいでいる。若者たちが将来に向けて、大人になることに希望を持っていない。若者だけでなく社会全体が、大人になっていつかは死ぬという現実、日本や世界が抱えている矛盾から逃避している。
 みんなが一斉に気休めの楽しさや刺激を求めるので、エンターテインメントが文化の主流になっている。人生の目的は、異性にモテることであったり、昇進することであったり、お金持ちになることであったりする。
 みんな忙しくてよく働いてはいるが、職場では上司が威張り、部下は上司にペコペコして気を使う。常に周囲の目を気にして行動している。友達と会う時間もない。友達といっても、希薄な関係が多い。独身と離婚が増え、若者はキレやすくなる。「有能でお金持ちの男」と「美人」に人々は群がり、お金も能力も美もない老いた人間は相手にされない。そんな老人が病気になると世話をするのも苦痛になる。
 若者は、大人になりたくない、老いたくない、社会に出ても個性を殺して働き蜂になるだけだ、と言うし、中高年は、会社でいつ首を切られるかわからない、と言うのだ。
 イラン人たちは、日本人は人生を楽しんでいない、威張ったりペコペコしたり、虐めたり、怯えたり、どうしてもっと大らかにならないんだい、と怒る。まったく私も同感だ。

 私はもっと個性を磨いて好きなことを仕事にしたいと考えているが、社会で働く大人は、いい年をして早く大人になれ、と言って快く思わない。日本の社会で大人になるとは、生活のために惰性と習慣で生きるようになることを意味するのだ。
 個性と才能で好きなことを仕事にした人でも、生活は厳しい。
 星野さんの最近の日記にも、あまりに忙しくて自分の読書の時間もなく健康を崩すほどだ、忙殺されているから日本の小説は質が低下していくのだ、そのうち忙しさで回りが流れ去って自我だけが残っていき、自我ばかりを主張することとなる、という意味のことが書いてあった。
 私は1人1人が好きなことをし、個性を発揮して自己実現できる社会にしていきたい。年を取るごとに人生に満足できるような社会にしたい。

 上に述べたようなことは、過去の日記にもたびたび書いたのだが、何回書いても世の中が変わらないのだ。それどころか、この日記を読んだある方が、社会に不平不満を持っていたら人々に支持されないよ、パレスチナ問題? 仲良くしている国を見習えばいいじゃん、直伽さん暗いよ、というのである。
 やっぱり変だ。
 若者も大人も社会全体が、現実を直視しない、本心と向き合わない、現実逃避の大きな流れの中にいるのだ。文化や経済もそんな流れの上にある。

 大人がなかなか正直になれないのはこうしたシステムを基盤にして生活しているためだろうが、若者たちは大人の世界はどこか変だ、と感じている。だから、自由なのは学生時代だけ、楽しいのは若い時だけ、という感じを持っているのだと思う。
 しかしいったん社会のシステムに組み込まれると、やがて純粋さを失って諦めてしまう。逆に、個性を出そうとする人間を見ると、煙たく感じるようになる。自分が抑圧するものだからだ。
 こうした悪循環があるのだ。
 もうそろそろこの悪循環を断ち切らないといけないのではないか。
 そのためにはどうすれば良いのだろうか。

 答えは簡単である。
 こういった世の中を少しでも改善していこうとする人々が多くなることだ。
 多数決の「数」、これが世の中を変えるのだ。選挙だって多数決で決まる。国会もそうだ。世論が政治を変えることもある。くだらない本でも読者が多ければ出版されるし、価値ある本でも読者が少なければ出版されない。ゲイや外国人や私のような感じ方をする人間が生きにくいのは、少数派だからだ。世の中は善悪や価値で動いているのではない。「数」によって風潮やシステムが動いているのだ。
 こんな当たり前のことに最近気づいた。
 具体的にどうすれば良いかと言えば、自分の感じ方・考え方、共感する文化人の本や映画や自分を体現するいろいろなものを世間の人々に伝えることだ。
 少数派が生きやすくなるためには、広めることをしなくてはいけない。

 ところで5月12日(日)にやっていたNHKスペシャルの「変革の世紀 第2回 情報革命が組織を変える〜崩れゆくピラミッド組織〜」はとても面白かった。
 IT革命により「逆ピラミッド型組織」という未来型組織が生まれたのだ。
 従来はトップが末端に命令を与えるという中央集権の「ピラミッド型組織」であった。ここでは個性の発揮は歓迎されず上司の言う通りに動く者が優秀とされる。このために、上司は部下に威張り、部下は上司にペコペコして機嫌を窺っていなければならなかったのだ。
 日本は島国で共同体意識が強いためとこうした「ピラミッド型組織」があるために、個であることがつぶされ、好き嫌いを失い、機械みたいになって働くために心が空虚になってくるのではないだろうか。日本の社会の病理は人々の心の空虚が原因だと思う。

 従来の「ピラミッド型組織」は、同じものを大量生産するのには適しているのだが、多様化する消費者ニーズには対応できなくなった。インターネットにより、消費者には様々な要望があることがわかったのだ。
 そこで、「逆ピラミッド型組織」というネットワーク組織ができた。ここでは組織の末端に権限が与えられ1人1人がリーダーとしての責任を持つことになる。末端にいる人間が、命令されることなく消費者の注文や需要に応じて独自の判断で仕事をする。
 上司がいないため、ナルシシズムに陥りやすいが、いろんな人たちと自由に意見を言い合ったりして自分を磨いていくのだ。例えば仕事で行き詰まると、インターネットでフォーラムにアクセスし質問をする。すると様々な専門を持つ人があちこちから返事をくれ議論になる。このことにより問題が解決したり仕事がはかどったりするのだ。
 これが、自由な自己実現を求める個人と、互いの協調を求める組織とを融合させた21世紀型の組織なのだ。これで人々は個性を生かし創造的に効率的に働けることになるという。

 私は基本的には素晴らしい組織だと思う。ただ少し気になるところがある。これは、一部の有能なエリートには適しているが、やりたいことがわからない、取り柄がないという人には不利な組織ではないだろうか。
 目的がはっきりしていて判断力や能力がある人は、このシステムにより創造的で効率の良い仕事ができるだろう。しかし、上司に従うことに慣れすぎていて自主性に欠ける人や、能力が低かったり心身に障害を負っていて仕事の効率が生まれながらに悪い人などは、これでやっていけるのだろうか。

 再放送は5月21日(火)だそうだ。



2002年5月12日(日)「<百年の愚行> 発行元Think the Earthプロジェクト

 素晴らしい写真集だった。ヒトが20世紀にやってきたことの実態をカメラに収めた、21世紀の地球を考える写真集だ。
 目を覆いたくなるようなショッキングな写真もあるが、これが現実なのだ。
 特に心に訴えてきたのは、「日本軍による空襲後の上海」だった。爆撃され建物がこなごなになって崩壊している町を目の前にして、体中に損傷を負って衣服もぼろぼろに破けてしまった幼児が、たった1人ぼっちでちょこんと地面に座り泣きわめいている写真だ。両親は爆撃で死に、目の前の地獄に、涙が枯渇してしまうぐらいに泣き叫んでいるのだ。
 今にも激しい爆音と泣き声が聞こえてくるようだが、写真には音がない。こんなに悲しくて残酷な現実を写した写真が100枚も載っているのに、本は絶句しているかのように沈黙している。
 「収容所の犠牲者たち」という写真も衝撃的だった。ドイツの1945年の時のものだが、痩せて虫けらのようになったおびただしい数の人間の死体が地面に積み重なっていた。その次の頁にはマイダネク絶滅収容所のガス室を写した写真が載っている。こうした強制収容所で450万人以上のユダヤ人が殺された。赤茶けた色や青色や黒などの不気味な染みと汚れで覆われていて、陰鬱な空気がこちらまで漂ってきそうだ。
 「製紙工場から出た木屑」もショッキングだ。プレハブみたいな3階建ての建物よりさらにうずたかく、山のように積まれた木屑。
 義足を穿いた人々の下半身が、何かの宣伝広告みたいに並んで映っている写真。
 不気味だ。でもこれが20世紀に世界の大人たちがやってきた愚行なのだ。21世紀に入っても、良くなる兆しが少しもないどころか、ますます愚行に踏み込み危機が訪れようとしている。

 それでは私たちはどうすれば良いのか、それは今後考えていくことにして、とりあえずはこの写真を沢山の人に見てもらいたいと思う。そして、日本人の私たちの裕福さがこのような犠牲の上に成り立っていることを自覚すべきだ。

 小説家・宮内勝典氏は次のようなメッセージをこの本に寄せられていた。「これまでに見たすべての写真集の中で、『百年の愚行』は最もすごい本だ。息をのんだ。絶句させられた。二十世紀とは、人類が宇宙に進出した輝かしい世紀なのではない。戦争と殺戮に明け暮れた、狂気の百年だった。ぼくたちヒトは、狂ったサルそのものだった。この青い水惑星にも、深いダメージを残した。未来の人たちは、いつか二十世紀をふり返って「暗黒時代」と呼ぶだろう。ぼくたちは滅びるのか。いや、いまならまだ間に合うかもしれない。そのために、この本がある。ぼくはこの『百年の愚行』を瞑想の対象にしようと思う」
 「直伽のお気に入りの本とイベント情報」に載せた。



2002年5月7日(火)「市民の意思表示の重要性」

 世間には次のような意見がある。
 「解決策を持たないで米国や日本の政策を批判するのはおかしい。解決策がないのにパレスチナの人々の悲鳴など聞いても不安になるだけで得るところがない。国に文句を言う暇があるなら、まず自分のやるべきことをしろ」

 毎日不安になるようなニュースばかりが報道されているが、今日本や世界で何が起きつつあるのか知らないで生きていると、いつの間にか国家の都合の良いように振り回され市民が損をすることになる。
 例えば、去年の秋、私は自分の小説を出版して紹介するつもりでこのHPを立ち上げたが、立ち上げた途端に9.11事件が起こった。売り払って出版費用にするつもりだった株も暴落して売れなくなった。仕方ないから、人から借りたお金で出版することにした。景気がますます悪くなり、出版業界は大丈夫だろうかと心配にもなる。新潮社など大手すら危ないという。私が働いている仕事場の関係の海上保険会社も潰れてしまった。失業者が増え、仕事を持っている人でも失業不安が高まる。
 報復戦争やパレスチナでの紛争は、遠い出来事に見えるかもしれないが、確実に私たちの首を絞めるような悪影響を及ぼしているのだ。
 さらに日本が参戦しやすくなるための有事法制化や、言論の自由を妨げ国家の都合の良いように言論統制を行おうとする個人情報保護法も作られようとしている。
 これから小説を発表してずっと書いていこう、と将来に夢を抱いているが、世界の戦争・紛争や日本の国家が邪魔をしてくるという感じを持っている。国家は私たちを守るどころか、戦争参加して危険にさらそうとしているのだ。
 確かに市民も代案を持つに越したことはないが、代案を持たないなら黙っていろ、というのは間違っている。黙っていると、たちまち国家の都合の良いように振り回される。
 政治家は私たちの選挙で選ばれているのであり、私たちの税金を戦争に使って多くの罪なき人々が殺されたり、私たちの権利を脅かすような法律ができようとしているのだから、代案を持つ持たないにかかわらず、その政策には反対であるという意思表示をする必要がある。選挙での投票、デモ、募金など、行動することが希望につながる。
 国家が国益のために市民を顧みず異常な方向へ暴走している時には、そこに歯止めをかけるのが私たち市民の役割なのだ。

 暗いニュースばかりでも日本や海外で起きていることに関心を持っていれば、地球を少しでも改善するために、選挙でどの政治家を選べば良いのかわかってくる。
 私たち市民が国に対して最低限やるべきことは、どの政治家に日本の舵を取らせて良いものか普段から考えて慎重に投票することだ。棄権をする場合でも、そのことが日本の政治・社会や世界にどのような影響を及ぼすのか、どのような意味があるのか、ちゃんと知識と考えを持って行うべきだ。
 たかだか一票にどんな意味があるのか、と思う人がいるかもしれないが、日本の選挙の棄権率は約半数ぐらいだ。この約半数の無関心・いい加減さによって、タカ派の危ない政治家たちがたやすく国家権力を握り私たちの生活を脅かすことになるのだ

 私の意見としては、日本は他国からの一方的な攻撃から身を守るための軍事力は持っているべきだと思う。しかし戦場に行って戦うべきではない。日米防衛協力のための指針(ガイドライン)や周辺事態法やテロ特措法は不必要である。いずれも、他国の戦争に公然と協力するものであるからだ。
 世界のケンカに加わらないと、「一国平和主義」と非難されるのなら、後始末をしてあげれば良い。
 つまりPKO(国連平和維持活動)と、NPO(Nonprofit Organization、民間非営利組織)やNGO(Non-governmental Organization、非政府組織)の活動に力を入れ、破壊された国の再建・復興を助けることで世界貢献すれば良いのだ。医療、衣食住、地雷撤去、教育、労働、治安の問題などやることは山ほどあるし大金もかかる。
 私の税金を人殺しに使って無駄にするな、と国家に言いたい。



2002年5月3日(金)「反戦・平和を語る★ノーム・チョムスキーVS辺見庸」

 PLAYBOYの6月号に、チョムスキーと辺見庸との対論が載っていた。チョムスキーの「9.11アメリカに報復する資格はない!」という本の内容とも重複するが、彼は次のように述べている。

(1)闘争なくして言論の自由はない。
 チョムスキーは、市民運動が言論の自由の範囲を広げた、闘うのを忘れてしまえば、権利は失われていくのだ、という。
 マサチューセッツ工科大学では、彼を批判する集会が開かれたり、タイムワーナーAOLになっている企業が、彼の本を世間に出回らせないようにするために出版部門をつぶし、保有していた書籍をことごとく抹殺したことがある。しかし他の独裁国家や軍事政権下の社会に比べたらどうということはない、知識人は沈黙せずにしっかりと闘うべきだと言っている。
 ベトナム戦争時も市民たちの反対運動はあったが、知識人は闘わなかったそうだ。チョムスキーは1960年代にベトナム戦争反対デモで、作家ノーマン・メイラーとともに逮捕されているが、それはベトナム戦争が始まって随分経ってからだという。すでに何十万という人々が南ベトナムで虐殺され国土が壊滅状態になり戦乱がインドシナ半島全体に波及していった段階で、ようやく民衆の間で反戦運動が起こってきたのだ。市民の反戦運動が起こったのも遅いが、知識人の間には起こらなかった、と彼はしつこいぐらいに知識人の沈黙を非難している。

(2)イラク攻撃はありうる。
 ブッシュ大統領は、「サダム・フセインは自国の国民に向かってまで化学兵器を向けるような極悪人だ、大量殺戮兵器を開発しているんだ」と世界に向けて言っているが、実はそんなフセインを支援していたのはブッシュ大統領の父親のジョージ・ブッシュ大統領とイギリス政府だった。米国とイギリスはイラクに大量殺戮兵器を作り出す技術を与え続けていたのだ。
 こうしたことを西側知識人は知っているにもかかわらず、「我々の支援を受けて、フセインは恐ろしいことをしでかしたのだ」と真実を言えない。これが、知識人の偽善であり限界だ、とチョムスキーは言う。
 当然、米国のイラク攻撃はフセインの犯罪とは無関係だ。イラク攻撃の本当の理由は、イラクの石油資源はサウジアラビアに次いで世界第2位であり、この石油資源を支配したいためなのである。

(3)最大の危険は宇宙の軍事化だ。
 アメリカは、外交にも影響を及ぼすことのできる威信を確立するために、核兵器を中核においた軍事政策を持つ。さらに最も危険なのは、宇宙の軍事化だ。
 1967年に国連総会で外宇宙条約が結ばれ、宇宙への軍備は禁止されている。毎年条約が再確認されているが、アメリカとイスラエルだけは棄権している。なぜならアメリカ合衆国は宇宙への軍備を計画しているからだ。小型原子炉をのせたレーザー兵器など破壊能力が高く攻撃的な兵器を配備する計画だ。
 これは地球的規模の破壊を保証したも同じなのだ。工学の文献には「標準事故」という用語があるそうで、複雑系の中では必ず起こる事故らしい。コンピューターを持っていたら、そのうち必ず標準事故が起こる。突然何も動かなくなる。複雑系とはそういうものらしい。
 宇宙の軍備も極めて複雑なシステムなので、必ず標準事故が起こる。標準事故が、人類を破滅させる。
 これはスペースコマンドという公開されている文書を読めば、計画の理由が書いてあるそうだ。
 「アメリカの産業の利益と投資を守るために、宇宙という新たな場へ向かわねばならない」これはかつて海軍が創設されたのと同じ理由だ。イギリスが海軍を創設した時には、ドイツや日本が反撃することができた。しかし、アメリカが宇宙を占有するとなると、これに反撃するところがない。宇宙開発にかけてはアメリカが独走しているからだ。ということは、圧倒的な力を持って、利益と投資を守ることができる。
 これが最も、極めて危険なことである、とチョムスキーは言う。
 宇宙開発に関する文書はインターネットで見ることができるそうだ。

(4)米英はアフガンに賠償を払え。
 1980年代、ロシア(当時ソ連)がアフガニスタンを占領し傀儡政権を作ったため、ビンラディン氏とムジャヒディン(イスラム戦士)らがソ連と戦った。アメリカはソ連と対抗するためビンラディン氏とムジャヒディンを全面支援し、軍事訓練、兵器、お金などを与え戦いに荷担した。アメリカがイスラム過激派テロリストの組織化を援助し、ビンラディン氏を育てたのだ。
 つまりアフガニスタンの地で、ソ連とアメリカが衝突し国土を破壊した。だから、支援ではなく、補償を支払うべきだと、チョムスキーは言うのである。

(5)日本の知識人は天皇を告発したか。自らの像を鏡に見よ。
 戦後期の日本の経済復興は、50年間、アメリカのアジア地域における戦争を全面的に支援してきたことによる、と彼は言う。朝鮮に対するアメリカの戦争で日本が荷担したことと、ベトナム戦争で日本がアメリカを全面支援することで、日本は経済発展を遂げた。
 しかし、サンフランシスコでの講和条約後は、日本は占領経費やその他犯罪のつけをアメリカに支払い、アジアに対する賠償は物品を送ることだけだった。これで良いのだろうか?
 しかも真の戦争犯罪人である天皇は告発されない。なぜなのか?
 日本人、とりわけ知識人は自分たちの罪と欺瞞をもっと見つめろ、と彼は言う。

 チョムスキーはこの対論で、知識人の欺瞞を叱咤し、市民運動によって国の様相が変わってきたのだと強調していた。

 確かに、反戦・平和について発言したり行動する知識人や文化人は極めて少ない。宮内さんや坂本龍一は反戦と平和のために身体を張って発言されているので偉いと思う。星野智幸さんのHPは1999年に立ち上げられたものだが、当初の日記から日本の右傾化や内面の空洞化、言論が規制されてくるであろう問題について書いてあり、本当に耳を傾けるべき作家の言葉はここにあるのではないかと思う。
 それなのに出版されて店頭に並び多くの人々に読まれているのは吉本ばななのHPの日記の方なので、変な世の中だと思う。今日はフラダンスに行ったとか、どこどこのタイカレーが美味しかったとかいう、どうでも良い話ばかりが書いてあるのに、どうして人々はそういった本ばかり買うのだろう。吉本ばななも文化人として反戦・平和について少しは発言したら良いと思うのだが、全くその話題には触れないようだ。
 しかし皮肉にも作家は欺瞞的である方が売れるようだ。

 ところでチョムスキーは74才である。衰えることが全くない頭脳と舌鋒、事実の厳正をとことん求め、身体を張って発言し続ける勇気と情熱には、人間業ではない神々しいものを感じる。
 「9.11アメリカに報復する資格はない!」という本は、チョムスキーのインタビュー集で、米国が歴史の中でずっと行ってきた国家テロについて書いてある。「直伽のお気に入りの本とイベント情報」に加えた。

 2日付けの新聞に、フランスでは「反ルペン」のデモに130万人以上集まったと書いてあった。フランスはやっぱりマトモだ。でもルペン側も1万人のデモを行ったらしい。