2002年2月26日(火)「世界のひずみ」

 イランは、アフガン復興支援会議で、5億6千万ドルもの拠出を表明した。にもかかわらず、米国は「テロ組織アル・カイーダの越境を許している」「アフガン西部の特定勢力に武器供与している」とイランを非難したばかりか、「悪の枢軸」として名指しした。しかしイラン訪問中のアフガニスタン・カルザイ暫定行政機構議長はイランに友好的で、米との協調を望んでいた。もっとイランのアフガン支援は正当に評価されるべきだ。
 
 イラクと国連との対話が再開された。米国は、「1年中、24時間体制の抜き打ち核査察」をイラクが認めることを制裁解除の条件とするよう主張している。確かに大量破壊兵器など開発・生産すべきではない。世界は、「一年中、24時間体制の抜き打ち核査察」を、米国に対しても行うべきである。世界中の国が、お互いにそれを行って見張っていれば良いと思う。

 日曜日のNHKスペシャルで「グローバル化によるひずみ」についてやっていた。国際通貨基金(IMF)や世界銀行のグローバル化のためのプログラムや政策により、ますます世界の貧富の差が激しくなり悲惨な状況になっているのを、アルゼンチンを例にあげて説明していた。
 破綻したアルゼンチンの経済構造と今の日本の経済構造が似ているという。もし日本が「先進国」から脱落して、「第三世界」のような貧困な国になってしまったらと想像すると、全く魅力のない国になってしまうだろうな、と漠然と思う。
 見渡せば、貧困な国でも、魅力的な国は沢山あるのだ。
 「先進国」はみんなが目指すべき価値の高い国であり、「第三世界」は貧困で価値が低い国である、という世界中の見方は間違っている。
 「先進国」が失ったものを「第三世界」の人々が持っていることもあるし、「第三世界」の人々の方が、「先進国」の人々より、自国に満足していたり誇りを持っていたりすることもあるのだ。例えばイランはそうだった。
 総合的に見るとどの国も同列にあり、「上下のレベル」はないのだということに世界は気づくべきだ。あるとしたら、搾取して肥える側と搾取されて衰弱していく側、という立場の違いだけだ。米国の、「第三世界」よりも「先進国」の自分たちの方が価値が高い、という傲慢な見方が、外国への余計な軍事介入をさせているのではないだろうか。経済や文明というある側面から、存在の価値まで決めつけてしまう、自分が神であるかのような態度が間違っているのだ。

 バングラデシュのグラミン銀行は、マイクロクレジットという方法で貧困な人々を救っている。職のない貧しい人に無担保で小口融資をするのだ。小口融資を受けた人々は、農業などの仕事をして、お金を返す。返済率は90%ぐらいだと言っていた。このやり方で貧困から脱出している人々も増えているらしい。
 こうした銀行を第三世界のあちこちに設立すれば良いと思う。
 しかし最善の策は、世界の国々が戦争に莫大なお金を投じるような無駄遣いをしないことだ。殺し合いや破壊に多額の金を費やすのをやめれば、貧困問題を解決できるお金はいくらでも拠出できるのだ。
 番組の中に、「世界の貧困のために1%の税金を払っても良いという人はいるか?」という質問のアンケートについての話があった。私の場合は、即答しがたい。1%の税金で貧しい人を確かに救えるのなら払っても良いかな、という気もするが、一方で税金が莫大な戦費にもなっているのである。
 一方を救い、他方を破壊するという繰り返しではないか、という空しい気持ちになる。
 税金を増やす発想をする前に、戦争に莫大なお金と命を犠牲にすることで誰かが得をするというシステムを変えるべきだ。



2002年2月23日(土)「女子美術短期大学 造形科 生活デザイン専攻 テキスタイルデザイン卒業制作展」

 なかなか面白い展示会だった。鮮やかな色彩でユニークな素材を使った、立体や平面などの大きな作品ばかりだった。横浜トリエンナーレは玉石混淆だったが、この展示会の作品はどれもが中レベルで低級な作品はなかった。独自の表現をしようとするエネルギーを感じた。
 発想として面白かったのは、安川美奈子の「繭足」という作品。これはビビッドな色彩の人間の両足のような織り布のオブジェが天井からつるされていて、床に胴体が寝そべっているもの。織り布の中には何かが入っていて、生き物が息づいているみたいだった。
 これは、二重織りという袋状に出来上がるやり方で織った長い筒状の布の中に新聞紙のくずをいれて、長い両足のように表現したものだ。
 色彩が素晴らしかったのは、中竹祐子の「森の精」と小泉美季の「山、装う」だ。
 「森の精」は、100種類以上の緑系の色彩と糸で、ノッティングというループを作る織りの技法で森を表現していた。糸は麻糸や原麻で、シリアス染料で染めてある。
 「山、装う」は、様々なシルク糸を秋の山の色に染めたもので、深い味わいと光沢があって私好みの色彩だった。
 他に、ジーンズ生地、金属線、ナイロンオーガンジーなどを使った大作ばかりで、新橋まで行った甲斐はあった。
 「直伽のお気に入りイベント」に載せてあるが、明日の日曜日まで。

 この展示会を見て、自分がいつか作ってみたいと漠然とイメージしていた立体作品がより鮮明になった。それは、二重織りとスプラングという網目状にできる方法を組み合わせたものだ。しかしそのためには、二重織りもスプラングもこれから学ばねばならない。いつになることやら。それに、良い小説も書きたいし本も沢山読みたい。一日が30時間あれば良いのに……、せめて長生きして普通の人より2倍生きるつもりだ。



2002年2月21(木)「米国の<悪の枢軸>呼ばわり」

 ブッシュ大統領が来日し、日米首脳会談が行われた。相変わらず小泉首相はブッシュ大統領の<悪の枢軸>発言を積極的に支持し、媚びへつらうだけだった。
 <悪の枢軸>呼ばわりされた、北朝鮮、イラク、イランでは反米感情が高まった。
 北朝鮮は「米国は膨大な核兵器とミサイルを保有して大量殺戮に喜びを感じ、人類を常に脅かしている最も危険で残忍な殺人悪魔」と反論している。イランのハタミ大統領も、革命記念日にアメリカを直接非難した。
 世界を善と悪に峻別する、米国の態度は間違っている。米国は、北朝鮮、イラク、イランが大量破壊兵器の開発に関与していると非難しているが、自分たちも大量破壊兵器を開発・生産するのを止めるべきではないか。自分のことを棚に上げて「お前は悪だ」と一方的に決めつけて攻撃しても、憎しみしか帰ってこないだろう。
 「完全な善い国」などどこにもない。どこの国にも善と悪が入り混じっていて、時代とともに様相は移り変わっていく。
 「悪」と決めつけて攻撃したところで、イスラエルとパレスチナのように憎しみ合い、永久に殺し合いと破壊が続くだけだ。
 21付けの読売新聞によれば、イラクへの先制攻撃が必要だ、との論理に米国民の多くが共感し、イラク攻撃支持率は60%を超すと書いてある。
 小泉政権は、米の<悪の枢軸>呼ばわりやイラク攻撃について堂々と批判し、新たな解決法を提案すべきなのだ。それが、第二次世界大戦で痛手を負うことで学んできた日本の態度ではないだろうか。米国の手助けで今の日本があるとも言えるが、もうすでに米国にノーとはっきり言える時期が来ているのだ。欧州同盟国は米国を「一国主義的」と堂々と批判している。どうして日本だけはこんなに卑屈なのだろう。
 日本はイランの改革派のハタミ政権を積極的に支援すべきだ。



2002年2月20日(水)「<愛>の関係」

 前回、人と関わる時、自ずと力関係が生じると書いた。人によっては、例の精神薄弱の女の子のように相手に全面的に合わせないと適応できない恵まれない場合があるし(決して良いことではない)、相互に同じ程度に合わせてつき合う対等な関係もある。
 運と力関係によって相手に合わせる度合いは違うけれども、相手に合わせる理由はみんな同じだろう。それが、生きるための術だからだ。孤立したら生きにくいのである。
 しかしまれに、自分の欲求や都合を消して、何の打算もなく、相手に合わせる時がある。それは、相手が自分にとってかけがえのない尊敬しうる人であると理解した時だ。他の人ではなく、その人でなければいけない、と相手に価値を見出した時、人は喜んでその人のために尽くすのだ。端から見ると自分を犠牲にしているように見えるのだが、本人はその人に命を注ぐのが快感なのである。
 これは男も女も同じだと思う。その相互のやりとりが、「愛」の関係なのだろう。
 しかし現実には、その人でないといけない、と他人に思わせるぐらいに自分の特徴を出して生きている人は非常に少ない。大部分の人は他人から見ると、いてもいなくても良いような、代わりのきく存在なのだ。
 社会の歯車として組織を拠り所にし、人生こんなもんだとあきらめ、食べることと酒と女遊びが生き甲斐になってしまった、魅力のない中高年が多いのである。
 これも離婚や独身が増えている理由だと思う。



2002年2月18日(月)「力関係とコミュニケーション」


 時々「コミュニケーション」とは何だろうか、と考える。
 例えば、ネット上で、掲示板やメールなどで対話をして相互に変わっていくのは「コミュニケーション」だと思う。これは、赤の他人や見知らぬ人同士で起こりやすい。
 しかし一方で、生きていく上でどうしても関わらざるを得ない、日常の中で相互依存している人との関係では、「コミュニケーション」は起こりにくいのではないだろうか。
 ある地方の電車の中でこんな光景を見たことがある。中学生の女の子の5,6人のグループが賑やかに電車に乗ってきたのだが、一人だけ遅れて乗ってくる女の子がいた。その子は精神薄弱で容貌も劣っていて太っていた。他の女の子たちの鞄の荷物運びをさせられていて、鈍重な動きで幾つもの鞄を抱えてみんなの後を歩いていた。
 手ぶらの女の子たちはみんなで席に座って冗談を言い合い笑っていた。精神薄弱の女の子は少し離れた、がらんと空いている席にたった一人で座って、淋しくもらい笑いをしていた。
 その女の子にとって、「コミュニケーション」「みんなと仲良く」「友達を作る」を実行することは、荷物運びをさせられてみんなに従いへつらうことなのだ。そうしないと仲良くしてもらえないのだ。
 この例は極端だが、日常の中で、「コミュニケーション」を取ろうとしたら、恵まれた人間と恵まれない人間との間で「主従関係」が生まれてしまうのではないだろうか。若者が突然キレる、というのは、こうした人間関係を破壊し再生したいからではないだろうか。テロリストが出現するのも、強国に追従せざるを得ない屈辱からではないだろうか。
 もし私が例の精神薄弱の女の子だったら、人と関わるのが嫌になっただろう。「コミュニケーション」「みんなと仲良く」「友達を作る」という言葉が、恵まれた人間の世渡りのためのただの美名だと思うだろう。
 人々は欲望のエネルギーで動いているから、このような力関係が生まれるのだ。
 人間同士や国同士の間には、こうした力関係がある。これが、「コミュニケーション」を阻んでいると思う。
 「砂の惑星」の美沙雄が60歳ぐらいで帰国して日本に居場所がなかったというのは、身内の中の力関係によって貶められた、ということなのだろう。
 自分に価値を置いてくれる場所がないとなると、一人で暮らす他ない。
 しかし一人で暮らした結果、一人芝居をテープに吹き込んで孤独のうちに生涯を終える運命になるとは……。悲しすぎる話だ。

 力関係においての弱者と強者が「コミュニケーション」をするにはどうすれば良いのだろうか。例えば今回の報復戦争でも、米国はタリバン側との対話を拒否してアフガンへの空爆に踏み切った。
 強者は「コミュニケーション」を無視して常にやりたい放題なのだ。
 法律によって、弱者の権利を保護したり、強者の権限を規制したりすれば良いと思う。
 父親とはいえども、勝手に息子をドミニカ移民に応募してしまう権利はないと思う(まあ小説の設定としては、こうしないとストーリーが進まないのだが)。
 強者から虐められないためにも、損をしないためにも、弱者はできるだけ自立をしていくべきだ。
 力関係が対等であると、「コミュニケーション」しやすくなると思う。見知らぬ者同士との間に「コミュニケーション」が成り立ちやすいのは、力関係が対等だからではないだろうか。



2002年2月15日(金)「私の祭り」


 昨日から、下北沢にある「ギャラリークラフトスペース」でショール・マフラーなどを展示販売させてもらっている。オーストリッチレザーのバッグ・小物の展示がメインなのだが、空いたスペースに置いていただいたのだ。値段についてはギャラリーの方が決めるので把握できないが、とても嬉しくて感謝している。
 年に一回か二回、こうした機会があれば良いと思っている。
 小説だけに専念すれば良いのではないか、とも思ったけれど、如何せん1800人中の1人に選ばれなければ新人賞は獲れないし、自費出版するのもお金がかかる。
 今回の出版にも百何万かかっている。自費出版は、何冊まで続くかわからない。
 小説をきちんとした形で世に出すのは、とても難しいと感じる。
 それでも小説と織物を世に出したいのは、私が自分の霊を祭りたいからである。



「居場所」

 星野さんの「砂の惑星」という小説は、「居場所」について考えさせられる。
 人はよく、自分の「居場所」があるとかないとか言うけれど、「居場所」とは、「自分に価値を置いてくれる場所」という意味だろう。
 人との関わりは大事だと思うが、他人や集団に関わることで却って「居場所」がない、と感じることもある。それだけ、自分に価値を置いてくれる他人や集団は少ない。
 かと言って「居場所」を探して死ぬまで転々と移動し続ける、というのもどうかと思う。「居場所」を探し続けて世界を放浪したとしても、果たして「居場所」はあるだろうか。
 「居場所」は自分で作っていくものではないだろうか。
 私は自分の「居場所」について考える時、織物と著作に囲まれている自分をイメージするのだ。

 ところでアメリカが、「悪の枢軸」としてイラン、イラク、北朝鮮を挙げているのには納得がいかない。イランはこれまでアメリカに協力する姿勢を示してきた。ハタミ大統領は、2月11日に行われた革命記念日にアメリカを直接非難した。今まで、対米関係を改善しようとしていた改革派だったのに。
 関係を改善しようとすると破綻する。イスラエルとパレスチナもそうだった。歴史は融和と破綻の繰り返しなのだろうか。
 もっと人類は賢くなるべきではないだろうか。



2002年2月14日(木)「<砂の惑星>星野智幸・すばる3月号/居場所」

 この小説を読み終わった時、他人事ではないな、と不安になった。星野さんの小説はあまりに現実的で、読み終わると切なくなる。それも星野さん特有の繊細で美しい描写がちりばめてあると、なおさらそうだ。
 星野さんはラテンアメリカ文学の影響を色濃く受けた作家としてデビューされたが、様々なスタイルの小説を発表されていると思う。作風はそれぞれ違っていても、デビュー作からずっと「コミュニケーション」や「居場所」というテーマが底にある。
 今回は「居場所」が、大きなテーマとして前面に出ていた。
 これは、主人公の新聞記者が小学校で起きた集団無差別殺人事件の取材をきっかけに、美沙雄という日系移民のあまりにも孤独な辛苦の人生を辿っていくという話だった。
 父親が息子の美沙雄を持てあまし、彼のために勝手に政府の募集したドミニカ移民に応募してしまう。美沙雄は親子の縁を切られた思いで一人ドミニカに渡る。だがドミニカでの農業の仕事もうまくいかず夢に破れて年老いる。一時日本に帰国したが身内ともうまくいかず再びドミニカに戻ってしまう。その後天涯孤独なままに引きこもり、自分の人生を凝縮した一人芝居をしながら生涯を送る。その芝居は誰にも見せるつもりのない、自分にだけに語り聞かせるものだった。だが、自分の一人芝居をテープに残していたのは、本当は誰かに伝えたくて伝えたくてたまらなかったのだろう。
 この話は、ブラジルで日系移民を撮り続けている記録映画作家の岡村淳氏のビデオ作品「郷愁は夢のなかで」より着想を得たという。
 星野さんの2002年2月8日の日記とエッセイによれば、このビデオ作品はブラジルの片田舎で孤独に暮らしていた西佐一さんという老人の、驚くべき強烈な実話だそうだ。
 私はこの映像作品をぜひ観たい。

 私の心に迫ってきたのは、最後の方にある主人公の言葉だ。「……一人で語り続ける言葉に本当に意味はあるのか、俺はそれでも外に言葉を伝えるのだ、俺の言葉はここにある、……」
 自分のことを言われているみたいに胸に突き刺さった。私はのんびりしているが、ずっと小説を書き続けていきたいと考えている。しかし、読者がいないのだ。
 一生、一人芝居のようになったらどうしようかと時々不安になる。それでもやめられないのは、小説という形式で別な時空を作り出していくのが私には快感だからだ。



2002年2月9日(土)「人々が不幸になるシステムを改善するには? <鐘が鳴る島>村上龍 <悲しき熱帯>(角川文庫)に収録」

 前回書いた、ある小学生の、「人々が不幸になるシステムがあると思います。こんな状況をどう改善すればいいと思いますか?」という世の中に向けられた問いについて考える時、<鐘が鳴る島>という村上龍の短編を思い出す。

 文学として完成度が高いのかどうかわからないが、印象に残る小説だった。
 ある外国人の男が郵便船で島にやってきた。奇妙な島だが、男も奇妙なのだ。荷物の段ボール箱に入っていたレコードを海に捨ててしまうのだ。
 男はサージアンという名で、小屋に一人で住み人付き合いがなかった。家よりも大きい巨大なコンテナが三つ、サージアンの小屋に届けられた。一つ目はブルドーザー、二つ目はトマトの苗木、三つ目はレコードプレーヤーだった。
 島の少年が、レコードは海に捨ててしまったんじゃないですか? と聞くと、一枚だけ残しておいたんだよ、と言う。それは鐘の音のレコードだった。
 その日以来、毎日サージアンの小屋から鐘の大きな音が鳴り、島全体が鐘楼になったかのようにバナナの林が揺れた。
 サージアンの畑にトマトが沢山成ったが、彼は収穫しなかった。トマトの畑は腐って、虫の巣になり、酸っぱい匂いが島を被った。
 ある日、サージアンを訪ねて、二人の男が軽飛行機で来島した。新聞記者とカメラマンだった。彼らによると、サージアンは元ポップ・ミュージシャンだという。かつて大ヒットしたが、一曲だけだった。その後はまったくダメで、忘れ去られてしまった。彼らはサージアンにインタビューしたが、サージアンはわけのわからないことを口走るばかりで、取材にならなかった。彼らは、完全に狂っている、と言い残して去っていった。
 その後もサージアンは何年も島に住み続け、鐘の音を鳴らしていた。少年は鐘のことを尋ねてみた。サージアンは答えた。「鐘の音で始まるロックを作りたいって思ってたんだよ。……毎日聞いているんだが、まだできない」
 サージアンには女ができたが、すぐに別れた。その後、サージアンは島を去っていった。

 さらりとした文体の小説だが、世界とのコミュニケーションの手段を失った男の話として読んだ。彼にとっては、音楽が世界と繋がる手段だったのだ。それが失われて、外部・世界への興味も失せて他人とのつき合いもなくなっていった。島に引きこもり、孤立してしまったのだ。
 一見普通に生活している人は多いが、他人にさほど関心がなく、心の芯が疲れているのは、この男の内面に通じるものを持っているためではないだろうか。
 つまり、世の中の多くの人は、世界とのコミュニケーションの手段を失っている、あるいは見つからない状態なのではないだろうか。人々は毎日働いているが、仕事が世界とのコミュニケーションの手段になっている人は少ない。むしろ、生活のために自分に向いていない仕事をしていたり職場にいることで、世の中に虚無的になったり、違和感を持ってしまうのではないだろうか。
 サージアンがミュージシャンだった頃、大ヒットした曲をステージで歌いながら、世界に受け入れられていると実感し、世界の平和も心から願っただろう。
 好きな人や仕事を通して世界と繋がり、生き生きとして生きられるのではないだろうか。
 人々が幸福になる社会になるためには、一人一人が自分の人生に向き合い、好きな仕事をしていくべきだと思う。好き嫌いがわからず人々に同調しているだけだと疲れは増すばかりだし、ストレスで虐めが起きたり、年を重ねるごとに人生にくたびれて魅力が失せ、離婚が増えたり、若い女性を買ったりするようになるのではないだろうか。
 学校教育では、クラスを解体して、大学のように自分で授業を選ぶ個人カリキュラムにし、自分の人生と向き合う機会を増やせば良いと思う。
 なぜなら、学校や会社などを拠り所にして群れを作り、突出した人間を排除するという、誤った生き方をしてしまう人が多いからだ。
 人間は一人で生まれ、一人で死んでいくという、基本の姿勢を忘れていると思う。人との繋がりはその過程で助け合ったり、一緒に楽しむことで自然にできるのであって、あるに越したことはないが、最も重要なことではないと思う。
 一人になることを恐れている人が世の中には多い。自分が何を好きかわからなくて何のために生きているのかわからないから淋しいのだ。そこに直面したくないから他人に合わせるのだろう。でも同調は繋がりではないから、群れても淋しいのである。だからますます他人に嫌われたり孤立するのを恐れて大多数に従うのだ。
 サージアンはミュージシャンとして生きることができたら、もっと人々や世界と繋がっただろう。
 人は死ぬ時に思い残すことがないように、自分の好きな手段で世界に力を尽くしていくことが、最も重要なのだと思う。
 個人カリキュラムについて・宮台真司のホームページ



2002年2月6日(水)「日本人の心の疲れ」

 宮内さんの掲示板には、10代、20代の人たちもよく書き込みをしている。学校では虐めに悩んだり、社会に出たらシステムとうまく噛み合わずにフリーターになったり、世の中に違和感を感じている若者が多いと感じる。
 虐めを黙認する生徒たちや先生たちに、非暴力を訴えている小学生もいる。複数の若者が、「生き地獄みたいだ」「他人に関心がない」「心の芯が疲れる」と書き込んでいる。
 学校が完全週休2日になって何をしているか、という文科省の調査に、高校生の約半数が休む、寝る、と答えていたことが、最近の朝日新聞に書いてあった。
 一見仲が良さそうにグループを作っていても、一人になるのをすごく恐れて人に合わせているだけだったり、楽しめる時は若い時だけと現実から逃げるように刺激を求めて遊んでいたりする。 
 高校生に限らず、義務から解放されたら休みたい、と感じている人々が世の中には多いと思う。勤勉で悪い人ではないのだが、目に輝きがないのだ。
 人と人との関係が希薄なのも、外部・世界へ向くエネルギーが弱いせいだと思う。こうした問題は、フリーターや独身や離婚の増加、少子化、虐め、援助交際など社会の様々な病理と密接に結びついている。
 宮内さんの日記には、大学生や高校生などは、女子の方が男子よりも生き生きしていると書いてあった。
 私は手織りの教室に通っているが、生徒の大部分を占める主婦のおばさんたちは生き生きとしている。20代の独身で働いている女性もいるが、どことなくくたびれた表情をしていて、「誰か私のために働いてくれないかなあ」とぼやいている。
 男女ともに、社会に出て生き生きとして働いている人は少ないのではないだろうか。
 朝から夜まで働いていて一見元気そうでも、その人にとってなぜその仕事でなければならないのか、という必然性は特にないような、ただの働く機械だったりする。
 大学生や高校生の男子の方が、女子よりも「疲れ」を感じている傾向があるとしたら、やがて社会のシステムに組み込まれ歯車の一つになるという将来への不安・失望感からではないだろうか。
 それに比べて若い女性は、結婚に将来の可能性を抱ける余地が残されているのではないだろうか。
 性差による特性もあるかもしれない。
 この若い男女の違いについてはよくわからないが、例の小学生が書き込んだ(bP456)大人への問いかけは、とても鋭い。
 「……復興しなければならないのは、アフガンだけじゃなくて、世界もじゃないでしょうか。このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ、と遺書を残して自殺した中学生がいました。生きジゴクにみんなつかれている。不幸になるシステムがあると思います。こんな状況をどう改善すればいいと思いますか?」
 この問いに即答できる大人は、おそらくいない。しかし、今の日本が直面している大きな課題だ。日本人の誰もが考えなければいけない重要な問題なのだ。
 私には漠然とした考えはあるが、長くなるのでまた今度書く。